News

第5回レテパシーロックフェスティバル、近づいて来ましたね。
確か前に「12月にもレテパフェスをやるぞ!」と書いた(ライブ中に話した?)気がします。
ですが、やらない事にしました。
なので、レテパシーズのライブは10/25が年内最後です。(そういえばこのバンドよくある、年末イベント、みたいなライブのオファーが来た事が無い。なんでだろ?年末っぽく無いのだろうか?)
また今度詳しくお伝えしますが、第5回レテパフェスの後はリリースラッシュが続きます。
そして春頃には11thアルバムのレコーディングを予定しています。
労働しながら、年1枚のアルバムを作るとなると、どうしてもライブの回数は減ってしまいます。
昔は「6枚のアルバムだけは」と思って生きていましたが、今は「12枚のアルバムまでは」と思って行進しています。
それは今出来ている歌が12thアルバム用の歌なのもありますが、ここを一区切りにして、アルバム12枚分120曲の歌詞を載せた「僕のレテパシーズ詩集」と、120曲へ送る120の文章を書いて「僕のレテパシーズへ捧ぐ」という本にしたいな、と夢見ているからであります。

こうやって、いちいち区切りをつけてしまうのは、少年時代から変わらないので、こういう性格なのでしょう。
計画通りいけば、2026年には全て終わっているはずです。
それまでにあと何回ライブを出来るか分からないが、そんなに多くはないと思う。

なので、ぜひ10/25の第5回を目撃してね。
先日ロサンゼルスクラブのオーナーで、カニユウヤの父でもあるロハスさんが亡くなってしまったので、この日のロサンゼルスクラブでは凄い音が出る事がもうすでに決定しています。
安心して覚悟して来るように。

では本題。
今回出演してくれる親愛なる川崎テツシについて。

俺が初めてライブをしたのは2000年で高校3年生だった。
あれから24年歌っているが、カッコいいなと思えたバンドや歌手はどれくらいいただろう。
多分、30もいないと思う。
20〜30くらいではないだろうか?
昔は今と違って少なくとも月に3回以上は何かしらのライブをしていた。
年に30回対バンのあるライブをしていたとして、そして客としてもライブを見に行くので、1年に200くらいは見る計算になる。
今はそんなにライブをしなくなったので、それを差し引いたとしても、少なくとも1000以上は見たのではないだろうか。

1000見て、30に感動したとしたら、確率としては3%。
今、初めて数字にしてみたが、意外と多い気がする。
体感としてはもっと低い感じ(0,03%くらい)の暗くて寂しい音楽人生だった。

※正直に書くが、俺は数学が苦手なので、最初答えを間違えて30÷1000は0,03なので、0,03%なのだと勘違いしてしまった。
そして「やはり0,03%とかなんだなあ。そんな感じだよなあ。」と納得してしまった。
今回のNEWSは昨日の朝、バイト前に書いたのだが、最後の部分が書き終わらず、途中でバイトに行った。
で、バイト先の友人に「24年間で1000見て30に感動したんだから0,03%の確率だったわ。でもそんなもんだよなあ。」と言ったら「いや、古宮さん間違ってます。3%が正解です。」と指摘され、家に帰ってから上記の3行を書き直した。
でも、下の方にもその%が出てくるのだが、体感としては0,03%の方がしっくりくるので(3%じゃ100見て3に感動だもんね。絶対にそんなに多くない)上の3行のみ書き直し、下の方はそのままにします。

そんな0,03%の確率で川崎テツシに会ったのは2017年の事。

この「★&×ミー」(「スタンドバイミー、と読む。星→スター、&→アンド、×→かける=倍(バイ)、ミー)は岡沢じゅんと俺の共同企画。
1回毎に順番で好きな歌手を1組呼んで3マンにしていた。
ちなみにこの頃の俺は衰弱モードだったので、ライブをやるのが面倒くさく、家から徒歩2分のギャラリー?のような場所を会場にしてもらっていた。
この第4回の川崎テツシは岡沢じゅんが呼んで来た人。
正直じゅん君が呼んで来る人は必ず毎回素敵という訳ではなかったので、この日も見るまでは半信半疑のドキドキ。
が、川崎テツシは0,03%の人だった。
しかも、その0,03%の中でも「俺はその人の事を好きだが、多分相手は俺の事を好きじゃないな」というパターンも多かった。
今思えば、極度にネガティブだった自分の思い込みでそう感じていただけのパターンもある気がするが。(俺は好きな人には大好きですと言わないと嘘な気がして後悔するので、頭がもげそうなくらいに緊張しながらも言ってしまうのだが、思っていても言わない人が多いみたいなので)
そんなのも入れると「こっちは相手を大好き。そして相手も自分の事を好きそう」という状態は0,01%くらいになってしまう。
で、川崎テツシは0,01%の人だった。
その日のライブの事は実は全然覚えていない。(2017、2018はかなり抜けている)
ただ、確実に0,01%の人だったという事と、彼のCDを手に入れた事は事実。
辛かったあの時期、彼のCDをリピートして何回も聞いていた。(今、探してみたが、このCD紛失しているね。見つからなかった。あの頃は酔っ払って人に物を貸したりあげたりしまくっていた)
「インナースカイ」「ギンズバーグ」「ブルーライト」今配信されているやつとは別の演奏だった。(今配信されている、川崎テツシと燃えるキリン「燃えるキリンの話を聴いた」も素晴らしいのでぜひ)
あの頃、本当に文字通りこの歌達に救われた。
絶望してる時に、同類に会えるというのは、何よりも嬉しく励まされるものだ。

それから数ヶ月?さすがにいつなのかは記憶に無いが、もう一度彼と対バンした。
場所も覚えていないが、確実に東京では無かった、でも新幹線や高速バスとかに乗る距離でも無い、普通の電車で行ける距離の少しだけ遠い町でのライブだったと思う。
記憶が抜けている時期なのに、なぜ「普通の電車で行ける距離」と覚えているのか。
それは、帰りの電車の中での記憶が強く残っているからだ。

その日のライブは少しだけ覚えていて、確か地べたに座って見るタイプの店だった気がする。
お客さんはまばらで、川崎テツシが歌っている立ち姿が今でもシルエットで浮かんでくる。
地べたに座っていたのもあるのだろうか、見上げて見た彼は、とてつもなく大きく、そして頼もしく見えた。
俺達のやっている事や学びたかった事を教えてくれる学校なんてどこにも無いけれど、もしそんな学校があるのならば、同じ学校の卒業生な気がする。
彼とは、同じ季節、同じ本、同じ音楽に触れて来た気がする。

で、思い出の帰り道。
ここだけは鮮明に覚えている。

一緒に電車で帰った。
ブランキーの話になった。

俺は「初めて聞いたのはセカンドのBANG!だった。20才の頃だった。高校生の頃、同級生がブランキーを聞いていたが早熟な俺はバカにして一切聞かなかった。でもBANG!を聞いて感動して、ラストアルバムのHARLEM JETSも聞いてみた。感動した。元気が出てきた。で、こうなったら順番に最初から全部聞いてみよう、と思いファーストのRed Guitar and the truthを買ってみたが、全然良くなかった。で、次にサードのC.B.Jimを買ってみたのだが、あまり良くなかった。だけど、ライラックという歌は今でも大好きな歌で、たまに道路標識を蹴飛ばしながら口ずさんでいる。」という事を話した。

満員電車では無いけれど、そこそこに混み合う帰宅時間の普通電車。
テツシ君は何かしらの酒を飲みながら、うんうんと頷いていた。
その「うんうん」と頷く自然な感じを一切崩さずに、彼の手がギターケースに伸びる。
顔もごく自然で「うんうん」の声のトーンも変わらない。
そのまま頷きながら自然な当たり前の日常のような様子で、彼の手はギターを取り出し、いきなりライラックを弾き出した。
乗客達は一瞬ギョッとしただろう。
が、全員見て見ぬふりをしていた。

俺はこういう「イカレた行動」を特別好きでも嫌いでもない。
パンクを気取って力んで行う場合のこの手の行動はむしろ嫌い。
でも、この時のテツシ君のライラックは、野生動物の動きのように自然で当たり前の日常な感じだった。
なので、大好きな思い出として今でも覚えている。

あれから会っていない。
でも、あのライラックの続きのような顔をして会えると思う。
2回しか会った事無いけどね。
回数や時間ではなく、会った瞬間に前の続きが始まる。
そういうのが友達だと思う。
再会。再開。そういう事です。

PS.ブランキー、最近サブスクでも聞けるみたいですよ。
ライラック聞いてみてね。
きっとあなたも嬉しすぎて道路標識を蹴飛ばしたくなる事でしょう。
俺はこの歌を聞くといつも、室蘭の海の見える坂を友達と歩いてた時の事を思い出す。

第4回レテパシーロックフェスティバルの映像を公開しました。

レテパシーロックフェスティバルの光景/僕のレテパシーズ

経緯(レテパNEWS「そばにいる」)は前にも書いたので、長くは書きませんが、この日は関口萌の代わりに鈴木亜沙美がドラムを叩きました。
当初、ハジメちゃん(関口萌→セキグチハジメ)のお休みは長いものになる予定だったので、アディー(鈴木亜沙美→アディー)とは、もっと何回もライブをやると思っていましたが、結局この日の1回限りとなりました。
それでも俺やメンバー、そしてアディーにとっても、すごく貴重な経験になったと思います。
ライブ中にも話していますが、この日のライブの為だけに、かなりスタジオに入りました。
今、手帳を見たら1ヶ月半の間に計20時間も入っています。
アディーがレテパシーズをやっていた頃(2012-2017、1st-3rdアルバム)は、アディー以外のメンバーにぶっ飛んでいるパンクな人が多かったので、何となくアディーが「優秀な上手いミュージシャン」の役を担っていたと思います。
が、今回スタジオに入ってみて気付いたが、別に上手いわけじゃ無いんだよね。
彼女のドラムを初めて見たのは2002年頃、札幌東区161倉庫での事でしたが、あの時も上手いなんて思わなかったもんな。
ただ、彼女の純度に衝撃を受けた。
今回アディーは「クレイなジー」が特に苦手で、全然上手く叩けずに苦戦していました。
が、ハジメちゃんが苦手でレパートリーから長く外れていた「ロックンロール」や「SFマンボ」は、さすがにお手のものなので、6、7年振りにセットリストに入りました。
カニ、ヤハタ、南、の3人は、まだお客さんだった頃にアディー時代のレテパシーズを見ています。
なので「アディーさんと演奏出来る!」というトキメキでスタジオではずっと目が輝いていました。

今回アディーとは古い約束を果たせたような気分なんです。
2002年に俺と古宮夏希とカプリでやっていた3人組パンクバンドがあったんだけど、カプリが急遽ライブに出れなくなったので、アディーに打診して叩いてもらった事がある。
ライブの前日、深夜の161倉庫を借りて練習したのだが、その時の演奏が素晴らし過ぎて完全燃焼、次の日のMOON PALACEでのライブはまあまあだった、、
あれから22年。
ずっとこの第4回レテパシーロックフェスティバルみたいなライブをアディーとやりたかった。
もちろん、アディーがレテパシーズだった頃もカッコいいレテパだったとは思うけどね。
俺は今の方が気に入ってます。

まあ、どんなもんか見てみて下さいな。

撮影は進藤三太(さんちゃん)の初撮影でした。
彼は秋田ハイコーフェス時代からの友人で、この春、高校を卒業して東京へやって来た。
カメラマンになるぞー!という事なので、今回撮影してもらったのです。
今はカメラの学校に通って勉強しているみたいですが、高校時代はカメラなんか触った事も無かったらしく、このレテパフェスの時も学校のカメラを借りてドキドキで初撮影してくれました。
カメラマン目線で言うとヘタクソな映像なのでしょうが、一番肝心なレテパシーの大放出はバッチリ映り込んでいたので、全編公開する事にしました。
いつか伝説のカメラマンになって「俺の初撮影は第4回レテパフェスだったんだよ。東高円寺の汚え小さな店でよ。今はレテパフェスもあんなに大きくなっちまったけどな。あの頃が懐かしいぜ。みんなギラギラしててよお。」なんて遠い目をして語ってね。

2024年6月14日
東高円寺ロサンゼルスクラブ
「第4回レテパシーロックフェスティバル」

1.T君の夏の歌
2.そばにいる
3.まだもう
4.夏のアルバム
5.見知らぬ青年との会話
6.空知
7.ハローグッバイファックユー
8.SFマンボ
9.君しかいない
10.17
11.青春
12.クレイなジー
13.数学と国語
14.ホワイトアルバム
15.ロックンロールじゃ踊れない
16.海へ行こうよ
17.思わずブランキー

アンコール
18.ロックンロール
19.札幌ナンバーの最後
20.愛は風景

PS.昨日はロサンゼルスクラブにて4thアルバム「ブルースマン」のリミックス。
馬場友美、カニ、俺、の3人で行いました。
いつも通りアルバムの曲順で作業したのですが、1曲目「ブルースマン」の間奏が始まった瞬間に、あの頃のスタジオの爆音の雰囲気を鮮明に思い出せました。
もうこの瞬間、今回のリミックスの大成功を確信しました。
ただあの頃の雰囲気を再現したかっただけなんだな。
2018年、絶望期のレテパシーズは全然ライブをする余裕も無かったんだけど、代わりにこの1枚を残してくれた。
レテパシーの大放出なんてくそ食らえ!といった最高の気分でしたよ。
昨日の作業中の俺は。

3rdと4thのリミックスが終わり、後は両作リマスターしたらすぐにリリースします。
もう少しだけお待ち下さい。
※最近レテパシーズを好きになった人とかは、何がなんやら分からないでしょう。
また、リリース時に詳しく書きますね。

なんにせよ、3rd、4thの事はずっと心に引っかかっていたので、ついに終わってすっきりした。
「過去作いじりは全て終わったぞー!あとは10th、11th、12thと前進あるのみだ!」と雨上がりの東高円寺、ババカニと明るく笑い合いました。
作り手のマニアックな微調整、とかでは決して無く「あの頃のレテパシーズを再現したかった」だけなのです。
ちゃんと演奏はしてたはずなのに、当時の俺の病的な思い込みでミックスをし、音像を捻り曲げてしまっていた。
やっぱり3rdも4thもちゃんと演奏してたんだね。
全部俺が悪かったんだな。
レテパシーの大放出なんて知らなかった、あの頃のデストロイヤーなレテパシーズ。
カッコいいが、もう戻れないし、戻りたくもないが、こうやって残せたのはサイコーです。
ああ、やっと前だけ見れるんだ。嬉しい。

PS.さんちゃんとの懐かし写真、と今の写真。
身長が逆転してるのが面白い。

最近の俺達↓

まだ健康だった。2014年?2015年?

もう健康ではない。2017年。

これはいつだろう?

第5回レテパシーロックフェスティバル開催します。

2024年10月25日(金)
東高円寺ロサンゼルスクラブ
「第5回レテパシーロックフェスティバル」

開場18:30
開演19:00
前売3000円(1D別)
当日3500円(1D別)
※第4回のチケット提示で半額になります
※今回のチケットは第6回の半額券になります

出演
川崎テツシ
犬丸二
僕のレテパシーズ

【food出店】
トムヤム酒場イーダ屋
※レテパ3代目ベーシストの飯田裕が出店してくれます

川崎テツシの歌を初めて聞いたのは2017年。
この年は、自分が生まれた1982年から2024年の現在まででも、断トツで辛い年だった。
自分ではコントロール出来ない類の困難に襲われていた。
そんな時、自分と同じ匂いのする人間に会えた。
目の前には絶望が広がっていたが「ほらね。やっぱり。ざまあみろ。」といった感じでニヤリと笑う事ができた。
当時死ぬ事ばかりを考えていた俺にテツシ君の「インナースカイ」は優しく響いた。
そして今、この歌を久し振りに聞いたけど、やはり優しく響くね。
2017年頃は「6枚のアルバムだけは、6枚のアルバムだけは」とそれだけを考えて生きていた。
2024年の今は「12枚のアルバムを完成させるんだ。そして13枚目以降がもしあるのならば、13枚目以降のレテパの事を後期のレテパシーズと呼ぶ事にしよう。」なんて思えている。
1th〜6thが初期のレテパシーズ。
7th〜12thが中期のレテパシーズ。
13th以降があるのならば、それは後期のレテパシーズ。

死にたかった2017年。
ほとんど死ぬ事なんて考えなくなった2024年。
今の方が歌を歌えている気がする。
でも、もしかしたら、死ぬ確率なんて、今の方が高いのかも知れない。
生きるとか死ぬとかどーでも良くなっている絶好調の今の自分を、早くテツシ君に見てもらいたいな。
きっと気に入ってくれると思う。

犬丸ニの歌を初めて聞いたのは2023年。
THEドイ(犬丸二の大泉咲さんがボーカルだった)のライブを見て、犬丸二の音源に辿り着いた。
THEドイも良い歌だな、とは思ったが、犬丸二にはそれに加えて衝撃があった。
すぐにライブを見に行こうと思ったけど、残念ながら犬丸二は活動休止していた。
なので「犬犬波」というアルバムを繰り返し繰り返し聞いていた。

30歳を超えて今と同じこと言ってないんじゃないのって、うるせー
本当に優しいことが言えないなら何も話すな

アルバムの4曲目「ボーイズアンドガールズキラー」のこの部分はいつも一緒に歌ってしまう。
そして5曲目「犬っ走り」の世界に浸りながら、色んな事を思い出す。
このアルバムの「犬っ走り」の長さはとても素晴らしい。
自分の今までの思い出全てに、喜怒哀楽が出現する寸前のギリギリのちょうど良いスピードで、トントントンって触れて走っている感じがする。
いつ聞いても薄曇りの明るさな懐かしい気分になれる。
実は去年、THEドイにもレテパフェスにオファーしたのだが、待てど暮らせど全然返事が来なかった。
なんか変だな、と思っていたら「実は解散する事になりました。」と返事が来た。
悲しかったけど、犬丸二が活動再開するというニュースが届いたので、西荻窪のフラットにドキドキしながら見に行った。
ステージの無い狭い会場なので、あまり前だと緊張するな、とは思ったが、犬丸二以外を目に入れたく無い気分だったので、1番前で見た。
ライブが始まる前、セッティングしながら大泉咲さんはマイクを通さないくらいの小さな声で「ああ、なんでこんなに酔っ払っちゃったんだろう。」「あー、もう一回トイレ行きたいな。」とか、ぶつぶつ呟いていた。
ファンの勝手なイメージだが、その日みたいな出演者たくさん出る系のイベントを主宰出来る感じの人では無いのでは?(繊細で気苦労が絶えない純粋な印象を持っている)と思っていたので、長い長い自主企画の主宰のトリの演奏前、全然平気じゃない彼女の感じは、納得出来たし、あーやっぱりね、と思えて少し笑ってしまった。
そしてそんな平気じゃない彼女を支えるベースの人とドラムの人(まだ名前が分からず、すみません)の演奏や態度も素晴らしかった。
素敵な3人組だ、よかったね、と思った。

川崎テツシ、犬丸二、二組ともまだまだ書きたいけれど、もう少し近くなってからまた書きます。
今日はとりあえず、ご報告。
ご予約お待ちしています。

以下は少しだけ近況報告。
得意の日記風でお送りします。

○/○
3rdアルバム「永遠に、たまに」のリミックスを行う。
台風が接近していたが、元嫁のユキコは「湘南で行われるaikoの野外フリーライブ」を見に行くと言って嵐の中を飛び出したので、俺が息子のお守り当番。
しょうがないので、高円寺の家を会場にして息子を抱えながら作業する。
参加メンバーは馬場友美、カニユウヤ。
いつもの通り、まずは2人で作業してもらい、完成したやつを俺が聞いて微調整。
カニババ2人が作業している時は、作業内容を知りたく無いので、別室で息子に絵本を読ませて待っていた。
「あいうえお絵本」みたいなやつが食い付きが良いので読んでいたら「た」のページのタコの絵を見た後に立ち上がりタコのぬいぐるみを持って来たので驚いてしまった。
「そ」のページの空の絵を見た後は、窓の外の空を指差した。
へー、母親に仕込まれてやがるな、と思っていたら、下の階のカニババに呼ばれ作業に戻る。
そしてそこからが怖かった。
息子を膝に乗せながら「ユーレイ」という歌を聞いていたら、いきなり息子が立ち上がり、仏壇の遺影達を指差しちゃった。
「いやいや、さすがに偶然だろう、、」と思い、膝の上に戻すのだが、またすぐに遺影達を指差してしまう。
うーん、超能力ベイビーになってしまっているな。(まだ1才半)
まあ多分、成長と共に普通の人間になるのだろう。

3rdアルバム「永遠に、たまに」リミックスリマスター盤は今月中には皆さんに聞いてもらえると思う。
期待してていいよ。すごいから。

○/○
ユキコ、息子、と共に大槻さんのお見舞いへ。
ユキコには「あんた1人でやってるの?」と離婚の心配をしてくれていた。
俺には「いやあ、俺はもう死んだよ」と30分で5回くらい言っていた。
だけど先輩、幕はまだ下りてはくれないらしいですよ。
アンコール、アンコール。
もう少しだけ一緒に夢を見てみましょうよ。

※以下後日加筆

大槻さん関連?で一つ面白い事があったのを思い出した。
ので、以下加筆します。

○/○
元々嫁から、文章無しでこの画像だけが送られて来た。

俺は一瞬で全てを理解してニヤリと笑った。
こういうのがレテパシーだよな。最高。
時間とか関係無く、ただ風に吹かれて生きている人達だけが繋がっていれるのだと思うよ。

と、ここで結びたいところだが、意味分からない人の為に以下補足。

僕のレテパシーズ9thアルバム「RADIO LETEPA」の収録曲「ホワイトアルバム」に出てくるエピソード。
※以前解説をレテパツイッターに載せてもらっていたので、その画像も添付します。

2000年、20才の頃。
その頃はバイトもやめてしまい、ちょうどプラプラしていた。
出会って2ヶ月の女と同棲を始める事になり、相手のご両親に挨拶に行った。
すると、その父は「この娘は中学を辞めて以来、コソコソ色んな男と付き合っていたみたいだが、挨拶に来たのはお前が初めてだ。気に入った!」という事になり、俺もその頃マイブームだった「男はつらいよ」の歌を大声で歌ったりして意気投合。
「ところで結婚はしないのかい?」と聞かれたものだから「ああ、しますします。もうしちゃいましょう。」という事になり、そのまま出会って2ヶ月で籍を入れてしまった。(俺は大失恋の後で少しヤケになっていた)
その後も、こののんべえの義父とは気が合い、よく飲んだのだが、ある日「おいひろし。このレコード棚にあるビートルズのレコードを全部お前にやる。今すぐ持っていけい!」という事になった。
で、酔っ払ってるし、ビートルズには詳しく無かったし、義父も泥酔してるし、で「ホワイトアルバム」だけ見逃してしまったのでした。

最近義父はレテパの「ホワイトアルバム」を聞いてくれたのだろう。
いきなりこんな画像が送られて来たものだから、俺はレテパシーを感じ、ニヤリと笑った、というお話でした。

ちなみに、この話がなぜ大槻さんに関係があるのかというと、真黒毛ぼっくすのアルバム「夢の旅」収録曲の「大浜海岸へ」の中で大槻さんの事を怒鳴り散らしている男と、このホワイトアルバムの義父が同じ男なのです。
俺が離婚した後、この義父は大槻さんの義父になったので。(現在は大槻さんも離婚済み)
ただの札幌の床職人の男が東京のバンドの2つの歌に出てくる、というのは痛快ですね。
それだけ魅力的な男なのでしょう。
イカれてはいたけれど、頭の良い人だった。

以上、書き忘れていたので後日加筆でした。
多少大槻さん関連という事でここに載せたかった。

さあ、がんばろう。
「夢の旅」はまだ続くみたいだぞ。

今見たら、前回のレテパNEWSから1ヶ月も経っていますね。
前回のNEWSは第4回レテパシーロックフェスティバル直後だったので「第5回もやるぞ!」みたいな文章でした。

今、レテパシーズが何をやっているのか、少し分かりづらいかもな、と思ったので、今日は分かりやすくまとめてみようと思います。
そして、関口萌のお休み、復帰についてもご挨拶がてら経緯を書いてみますね。

「第5回レテパシーロックフェスティバルについて」

前回のNEWSで書いた通り、第5回は夏の終わりにやるぞ!と思い作戦を立て始めた。
前々から、いつか呼ぶぞ!と思っていたお馴染みのバンドがいるのだが「仲の良い彼らとやるのなら、身内ノリは嫌だから、もう少しレテパフェスが大きくなってから呼びたいな」と思い、今までオファーせずにいた。
が、ふと「いつまでも先延ばしにしていて、もし〇〇さんが死んだりしたら、すげえ後悔するな。うーん、もう少し先にしたい気はあるが、今回オファーしちゃおうかな。うん!そうしよう!」と思っていたら「〇〇さん、倒れたんだって」と知らされた。
なので、色々考え込んでいたら、1ヶ月が経ってしまった。
でも、ようやく動き出す気分になってきたので、また作戦立ててみます。
マイペースですみません。
夏の終わりと言ったけど、10月開催にしようと思います。
多分自分の時間感覚は壮大なタイプなので、10年単位くらいで大きく考えてしまう。
が、この感覚は自分以外には通用しないもんな。
あれこれ考えずに、好きな人にはさっさと好きと言う事にしよう。

というわけで、第5回についてはもう少しお待ちを。
秋のはじめに会いましょう。

「音源制作について」

今レテパシーズは、10thアルバムの制作をしています。
一度はマスタリングまで終わったのですが、同時に行っていた6thアルバムのリミックス、リマスターを聞いていたら、思うところがあり、ミックスに戻り再作業。
それもようやく終わりそうです。
10thは全曲夏の歌の「夏のアルバム」というアルバム。
リリースは冬のはじめ、かな。

そして関口萌も復帰したので、スタジオでは無事に11thアルバムのアレンジが始まりました。
色んなタイプのバンドがいると思うけど、レテパシーズは所謂「シンガーソングライターがいるバンド」なので、毎回アルバム1枚分10曲の宅録デモ音源と歌詞をみんなにまとめて配って「さあ!11thアルバムもがんばろー!打倒10thアルバムだ!」という感じです。
まずは前半5曲のアレンジを進めていますが、11thはなんだかすごそうです。

そして「シンガーソングライター」としては12thアルバムに入る予定の歌が7曲出来ました。
生活が混乱した状態だと歌は出来ないタイプなので、今回は時間がかかっています。
11thアルバム収録予定の歌の中で最後に出来た歌は2023年4月11日の「ホンダ」という歌。
その後は息子が産まれたり、断酒後初のバイトを始めたり、なんやかんやで混乱期。
なので、2023年12月1日に出来た「12月1日」という歌までは、歌が出来る気配は全く無かった。
「12月1日」以降は、またポンポン出来ていたのだが、離婚や引っ越し騒動で大混乱期を迎えてしまい、出来なくなった。
が、最近やっと落ち着いたのかな?
また歌が出来るムードになって来た気がする。
まあ、出来なくても全然構わないんですけどね。
でも、出来るとやはり嬉しいものです。

「僕のレテパシーズNEWSについて」

最近は「自分は文章を書くのが好きなんだ!」とようやく気付いたので、このレテパシーズNEWSを書くのも好きです。
その割には頻度が少ないのですが、その言い訳&夢、を書くと、、

12thアルバム用の10曲が出来たらレテパレパートリー全120曲の詩集を本にして出したいな。
多分120曲揃うのは、11thアルバムリリース(2025年の冬な気がする)よりも前になると思うから、せめて歌詞だけでも早く読んでもらえたら嬉しいな。
そして、120曲に対する手紙のような120の文章を書いて、これも本にしたいな。
詩集は「僕のレテパシーズ詩集」という題にしよう。
120曲への手紙の方は「僕のレテパシーズに捧ぐ」という題にしよう。

と夢見ているのです。
なので、1人で「僕のレテパシーズに捧ぐ」用の文章は書いているのです。
決してサボっている訳ではないのです。
アルバイトの喫茶店も当初の週4ではバンドの活動資金や借金返済には足りない事に気付いたので「週5寄りの週4」にしてもらっています。(「良いバンド活動は良いバイト探しから!」というのは本当ですね。悩める後輩達にこの格言を送りたいと思います)
私はがんばっている!会ったら褒めて下さいね。

以上、言い訳&夢、でした。

まあ、こんなところかな。
今のレテパシーズの活動報告は。

それでは、以下関口萌の復帰について書きますね。

「関口萌のお休み、復帰について」

結局、期間としては4ヶ月の短いお休みだった。
休む時にも文章を書いたのだが、その時はハッキリとは理由が書けなかったし、休み期間もこんなに短いものになるとは思っていなかった。
この前ハジメちゃんと話して、今となってはお休み、復帰、についてちゃんと書いておこうか?という事になり、文章については俺に任せると言ってくれたので、いつもの感じで思い付くまま、日記風で書いてみる事にする。

2021年7月3日
テレビをつけると「熱海伊豆山」の土石流のニュース。
レテパ通販の常連さんに「熱海伊豆山」の住所があった事を思い出し、心配になる。
返事は来ないだろう、と思いつつ、面識の無いお客さんにメールを送ってみた。

突然のメールですみません。
僕のレテパシーズの古宮大志です。
いつもありがとうございます。
テレビで土石流のニュースを見て心配になり、思い切ってメールしてしまいました。
大丈夫ですか?無事をお祈りしています。
古宮大志

まあ、どちらにせよ返信なんて来ないよな、なんて思っていたらすぐに返信が来た。
そのメールがあまりにも予想に反した内容だったので、嬉しいのとビックリしたのとで、興奮して涙目になってしまった。

以下、メールそのまま。

古宮大志様

ご心配、ありがとうございます!
土砂崩れの場所はかなり近かったのですが、私の所は大丈夫です。
ただ、まだ雨が降っていて心配なのです。
90才になる母と、避難所ではなく、伊豆長岡温泉の宿に泊まっています。
いままで内緒にしていましたが、実は私は関口萌の母です。すみません。
萌がお腹にいた時は大好きなジョニー・ウィンターの曲ばかりかけていたので、萌が影響されてしまったのかも…
古宮さんはすごい!と思います!
レテパシーズ、大好きです。
あ、それから私もハイロウズのライブは必ず行ってました。
即死を聞いた時からマーシーのファンになりましたが、ハイロウズが解散したとたん、裏切られた気がして聞くのをやめました。
色々事情があるでしょうけどね。なのでクロマニヨンズも聞きません。
今はブルースの曲か、ボブ・ディランばかり聞いています。
音楽がないといられないですよね。
すっかり長くなってしまいました。
これからもどうぞ宜しくお願いします。
ご心配いただき嬉しかったです。
古宮さんも、体調お気をつけてください。
ではまたいつか、ライブ見に行きます!
本当にありがとうございました。

関口千鶴子

無事だった事。
そしてハジメちゃんの母だった事。
そしてハイロウズの「即死」は俺も1番好きだったので、色々一気に押し寄せてきて、なんだか嬉し泣きしてしまった。
まだメンバー&妻だったユキコに大興奮の涙目でこのメールを見せた事を覚えている。

○/○
数日後のスタジオ。
はじめちゃんに「チヅコさん!レテパシーズのファンじゃん!なんで隠してたのさ!」と問い詰めると、はじめちゃんも知らなかったらしく、照れていた。
照れていた、というよりも、少し怒っている感じで照れていて、中学生みたいだった。
反抗期の少年のように、母の話をされるのは嫌そうだったので、チヅコさんの話はハジメちゃんとはしない事にした。

○/○
チヅコさんから仲井戸麗市のCDが送られて来た。
「ファンクラブ限定のやつだから持ってないと思って。」と手紙が添えられていた。
窓を開けて、雨を見ながら聞いた。
チヅコさんのお陰で、久し振りにチャボに会えた気がした。

○/○
はじめちゃんから「母が癌になった。」と聞かされた。
すぐにチヅコさんに連絡してみたら「数日後に東京の病院で検査を受けるんです。」と言うので、検査の日に病院に会いに行った。
この日が、はじめまして、だった。
神宮球場の横の大病院の前のベンチで話した。
「自分はこんなに元気なのに、癌だなんて信じられない。」と言っていた。

○/○
俺とユキコに息子が産まれた。
熱海のチヅコさんから熱海銘菓の「猫の舌」や「熱海七尾たくあん」やら、いっぱいお祝いが届いた。
添えられた手紙には、病状は落ち着いている、と書いてあった。

○/○
はじめちゃんに、明らかに疲れが見えてきた。
スタジオの遅刻や欠席が目に見えて増えていた。
話し合ってみると、チヅコさんの癌の進行、チヅコさんの高齢の母の体調悪化、その他家族のキツいあれこれ、新しい職場の過酷さ、等々、俺なら一つでも投げ出しそうな案件を全て抱え込んでいる事が分かった。
つまらない現実主義者の俺は「今はレテパ休んだら?その間はアディーに打診してみるよ。アディーなら叩いてくれると思う。」と提案した。
はじめちゃんは「うん、でももう少しがんばってみたい。限界になったら遠慮無く言うよ。」と言った。
確かこれは新宿ロフトの前の道での会話だった。
レテパのライブ後だったと思う。
2人で深刻に話していたら、遠くからカニ君が充実した顔で歩いて来た。
「カニイヤン。妙に良い顔してるじゃん。」と俺が言うと「そこのバッティングセンターに行って来ちゃいました。」と言っていた。
うまく言えないが、なんか自由で良いバンドだなあ、と思ったのを覚えている。

○/○
「最近は体調が悪いので、10thアルバム以降は多分私は聞けないと思う」とチヅコさんがメールをくれた。
10thアルバム収録予定の「そばにいる」という歌は、特にチヅコさんに聞いて貰いたい気がしていたので、宅録のデモテープを歌詞と共に送った。
この時はじめちゃんにこの話はしていないと思う。
が、スタジオではじめちゃんは妙にこの「そばにいる」にこだわった。
アレンジの時もすごく熱心だった。
多分、死んでいく人に聞かせたくなる歌なのだろう。

2023年11月25日
僕のレテパシーズ9thアルバム「RADIO LETEPA」レコ発ライブ。
チヅコさんは癌がだいぶキツくなっていたが「これを逃すともう行けないと思うから。」と言ってライブを予約してくれた。
予約のメールには写真が添付されていて、そこにはチヅコさん所有の友部正人のレコードが写っていた。(この日はゲストで友部さんが出演してくれた)
ライブ当日、体力の無いチヅコさんには物販席に座ってもらった。
俺はその後ろで友部さんのライブを見た。
友部さんのライブが終わり、俺はチヅコさんの背中を軽く叩いて「では、行ってまいります。」と言った。
チヅコさんは無言で深くお辞儀のように頷いた。

○/○
はじめちゃんから「限界なので休みたい。」と伝えられた。
俺はアディーに電話した。
アディーは快諾してくれた。

○/○
チヅコさんが亡くなった。
チヅコさんの母も後を追うようにすぐに亡くなった。
はじめちゃんから「落ち着いたので、戻りたい。」と連絡をもらった。
すぐに俺は11thアルバム用の10曲の歌詞をメンバー分コピーして、デモ音源と共にみんなに渡し「おかえりなさい、はじめちゃん。11thはすごいアルバムになるぞ!打倒10thだ!がんばろー!」と言った。

PS.
結局チヅコさんと会ったのは、神宮球場の横の大病院の前のベンチと、9thレコ発の時のライブ直前の一瞬、の2回だけ。
でも、この歌のように「そばにいる」という感じがします。
別にチヅコさんの為に作った歌では無いけれど、第4回レテパフェスではこの歌を歌いながらチヅコさんの事を思い出していました。

「そばにいる」

いつの間に ベイビーキッズ
いつの間に ボーイ&ガール
いつの間に ダーリンハニー
いつの間に とーちゃんかーちゃん
いつの間に ゴーストエンジェル
いつの間に シースカイウインド
いつの間にの人生なら

この街のどこかに
この街の明日に
この街の昨日に
この街の古い公園に
僕らが残すものなんて
きっとありきたりのもんさ
落ちてるのを見つけても
誰も拾わない落し物

そんな街の風景になれたら
なれてたらいいな

さよならさ ベイビーキッズ
さよならさ ボーイ&ガール
さよならさ ダーリンハニー
さよならさ とーちゃんかーちゃん
さよならさ ゴーストエンジェル
さよならさ シースカイウインド
さよならだけが人生なら

この街のどこかで
この街の明日で
この街の昨日で
この街の古い公園で
僕らが残すものなんて
きっとありきたりのもんで
朽ちていくのを見かけても
誰も気にしない忘れ物

そんな街の風景になれたら
なれてたら 僕ら

そばにいる

第4回レテパシーロックフェスティバル終了。
のりもの、メシアと人人、ロサンゼルスクラブ、目撃してくれた皆さん、目撃したかった皆さん、本当にありがとう。
どれか一つでも欠けてたら、我々はあんなライブ出来なかったと思う。

上記に名を連ね、アディーにもありがとう、と書いても良いんだろうけど、なんかアディーがレテパでタイコを叩くのは当然の行為な気がしてしまう。
だから、ありがとう、という感じとはちょっと違うんだよね。
でもほんと良い経験になりました。
しかも、お互いに良い経験になったんじゃないかな。
アディーがレテパで叩いていた2012年から2017年の間は、こういうライブは出来なかったもんね。
もちろん、あの頃にしか出来なかった事もあるんだろうけど、希望の光も絶望の影も、今の方が圧倒的に強いと思う。
だから、今の方が良いバンドだな。
という書き方は、よくないな。
あの頃もちゃんと今の一部。長い進化の途中だったのだろう。
ずいぶんと命懸けで大博打な二度とごめん系の進化だったけど。
全てが今に繋がっていると思える。
あんなにも、過去を全否定のリセット人生だったのにね。
いいぞ。いいね。要するに好調だな。

と、書きながらも、本当ならば「次のレテパフェスは⚪︎月⚪︎日!⚪︎⚪︎が出演します!」みたいな案内をライブ当日、少なくとも今日のレテパNEWSとかでは、発表するべきなのでしょう。
毎回ちゃんとそのつもりなのだが、レテパフェスが近くなると「うーん。もうだめだな。全然予約も入らない。やめたいな。何を?どこまでやめる?」という気持ちになってしまう。(結局たくさんの人が来てくれて嬉しかった。が、皆さん予約が直前なんだよな、、まあ良いんですけど。自分もそういうタイプだし。が、まあ心臓や精神に悪いや、、まあしょうがないんですけど、、)

そういえば、今回のレテパフェスは初めて一人暮らしの状態で準備しました。
離婚前、ユキコと暮らしていた時は「どうして毎回毎回レコーディングやレテパフェスとかの前になると、大規模な揉め事が起きるんだよ。俺が大事な時期になると喧嘩を売ってくるのはやめてくれ。支えてくれなんて思ってないから、せめて放っておいてくれ。」というようなセリフをこの数年間で何度吐いたか分かりません。
が、今回一人になってみて良く分かった。
俺が勝手に一人でデリケートでナイーブになっていただけだった。(アディーは昔から俺の事を「デリケートでナイーブ、だから古宮君はデリーブ」と評している)
昔は自己分析なんて一切しない性格だったが、アル中治療の中で「自分の行動を客観的に見て間違いを認める。しかも0か100かで大雑把に認めるのではなく、82対18みたいにちゃんと細かく具体的に向き合う」というクセが身に付いているので、今回の「一人暮らしでの初めてのレテパフェスでも一人で勝手にデリーブになっていた」という経験は大いに勉強になった。
なので、この前ユキコに会った時に「すまん。やっと分かりました。今まで大事な時期に喧嘩が多かったのは、俺がデリーブになっていただけでした。」と謝ったら「やっと気付いたのかバカめ。私は前から気付いてたけどね。」と息子に乳を与えながら勝ち誇った顔をしていた。
久し振りに見た息子はこんがり焼けていて、まるで「カントリーマアムチョコまみれ」みたいになっていた。
「え?チョコまみれみたいじゃん。1才児ってこんなにこんがり焼いて良いものなの?」と聞くと「バレたか、、」と苦笑いしていた。
ユキコの一族には「人生はレジャー。この世にはただ遊びに来ただけ」という強烈な家風が浸透しているので、きっと毎日どこかに連れ去られているのだろう。
がんばれ息子。

話が少しそれたが、ほんと毎回毎回自分でも嫌になるくらい落ち込んでしまう。
が、結局とても素晴らしい第4回だった。
もっと信じなきゃなあ。修行が足りないね。
ふと思ったが「フェス」って良いタイトルなのかもしれない。
今までの自主企画は全て自分一人で作ってた気がする。
メンバーもお客さんも関係無く、全て自分一人で。
でもレテパシーロックフェスティバルは一人では作れない。
もう、一人で作れるものには飽きてしまったのかも知れない。
変わっていく。何もかも。
が、自分一人で作っていたあの頃のライブよりも、今のレテパシーズのライブの方が圧倒的に好きだ。
なので、変わるの上等。
ざまあみろ。レッツゴー。(ああ、この歌6年振りに歌ったね)

2020年2月21日の復活ライブ以降はライブの回数も少なく、ライブがうまくいかなかった時期のトラウマもたまに思い出される。
なので、アスリートみたいで恥ずかしいのだが、ライブ直前には手帳のメモを見るようにしている。
そのメモには、
「歌は演奏されたがっている。(やさしくしてやろう)」
「興奮→演奏、では無く、演奏→興奮」
「下へ下へ」
なんて書いてある。

前回のレテパフェスの後には、
「もう一部屋あった」
と書き足した。

今回のライブ後には、
「テキトーで良い。もう全てOKになった」
「一人で作れるものには飽きた」
と書き足した。

もしかしたら、最近はアホで忘れっぽいので、次の第5回の前にはまたデリーブになっているかも知れない。
だけどそれすらも「テキトーで良い。もう全てOKになった。」の中での出来事と思える気がする。
第4回のおかげです。皆さんありがとう。
それでは第5回に向けて動き出そうと思います。

夏の終わりに会いましょう。
愛してるよ。またね。

PS.メシアと人人、のりもの、についてはライブ前にたくさん書いたので、サンキュー!アイラブユー!とだけ書いておこう。
いつか野外で盛大にやるぞ。
それまでちゃんとカッコいいままでいてね。

PS.レテパシーズのセットリスト。
せっかくのアディーだったので、1st,2nd多めでした。

PS.ロサンゼルスクラブ、どうでした?
次もここでやろうと思います。
今回は妙にデリーブになって、計画していた作戦を全然遂行出来なかった。
「計画していた作戦」

①フェスっぽくフードを出すぞ!
②来場者が記念写真を撮れるように「レテパシーロックフェスティバル」という文字のネオンサインを作るぞ!
③毎回来てくれる人に何かお礼をしたいから、割引スタンプを作るぞ!

次回に向け、怠け者の自分にプレッシャーをかける為にも書いてみました。
あ、③は今回の急な思い付きで「手書きチケットに次回の半額券を付けよう!」を実施出来たから、まあクリアだな。
腕もげそうになりましたが。
半額券、次回忘れずに持って来てね。

PS.というわけで、最近はデリーブモードだったせいもあり、今年から月一で書いていた「日記風シリーズ」を書いていませんでした。
4月以降書いてないや。もう何が起きたかも忘れかけている。
今日のおまけに一つだけ明るい感じのやつを書いておこうかな。
結構、心配してくれている人もいるので。

6/⚪︎
息子に太平洋を見せる。(写真は海を見せているところ)
もう3回目の海なので、全然動じない。
ちなみに2回目の海の時は、俺が立ちションしたら強風すぎて「宇宙飛行士がスペースシャトル内で水滴を浮かせて遊ぶ」みたいな状態になり、浮かんでは飛んでいく黄色い液体に息子は目を見張っていた。
まんまるの目玉。開いた口。
ほんといつでもナイスリアクションな小僧。
3回目の海は伊豆の海。
彼は海よりも砂浜に落ちている漂流物に夢中。
木の棒を2本拾い、両手に持っていつまでも離さず。
帰りの車内でもバナナを食べながらも棒は離さず。
バナナを口に入れた後に、棒を絶対に舐めるので、なんでだろう?面白いな、と思い俺も舐めてみたら海の味で塩辛かった。
やるな小僧。
甘いのとしょっぱいのを交互に楽しむなんて、グルメな男だな。
おい、夏が始まるぞ。ちゃんと日焼け止めは塗りましょうね。

親愛なるメシアと人人。
彼らとの出会いはいつだろう?

今、検索してみると、、
2016年10月23日(日)京都二条 nano
で対バンしていると書いてあるサイトを見つけた。
しかもこれはレテパシーズの2ndアルバム「愛してるよ」のツアーと書いてある。
※興味ある方はどうぞ↓

僕のレテパシーズ、9月14日発売の2ndアルバム『愛してるよ』からMV「札幌ナンバーの最後」公開。インストアライブも決定

俺はこの頃の記憶は全く無い。
このサイトに書かれている全日程全く覚えていない。(アルコール依存症の影響なので、うろ覚えとかでは無く全くのゼロ。)
ツアー最終日に「ツアーファイナル!詳細後日大発表!」と勿体つけて書いてあるファイナルに何が行われたのかも全く思い出せない。
心身共に限界を迎えつつあった俺に代わって、この頃は他のメンバー達が全てを仕切ってくれていた。
でも今、当時の「2016」と表紙に書かれた黒い手帳を開いてみると、ちゃんと「自主企画に呼びたいカッコいいバンドメモ」に「メシアと人人」と書いてある。(昨日も書いたが、ちゃんと「逃亡くそタわけ」とも書いてある。ついでに書いておくと、このあと出てくる「and young…」の名前もある。)
記憶は無くとも、真贋は見極めて生きていたのだな。えらい。

自分の中でメシアとの1番古い記憶はこの翌年になる。
忘れもしない悪夢の2017年。
第一次断酒治療を始めたが、治療法が合わず、断酒起因の鬱になり、ライブがうまく出来なくなったのだった。
今でも思い出すと「あー!ああああ!」と突発的に声が出てしまう程の「大後悔ライブ」は全てこの年の断酒鬱の時期のものだ。

そんな2017年の9月24日。
下北沢のベースメントとスリーの2会場で行われた「ボタヤマオリンピック」というイベントでは、and young…、僕のレテパシーズ、メシアと人人、というタイムテーブルで3バンドが並んでいた。
このライブの前に、もうすでに何回か鬱状態のライブを経験していて(心が全く動かない。ライブ中にも客と自分に対して「死ね」としか思えない。しかも全く熱の無い感情の「死ね」。全てが白々しく一つ一つが離れて見えていた。)この状態ではまともなライブは出来ない、と知ってしまっていたので、この日が来るのがとにかく嫌だった。
しかも、大好きなアンドヤングとメシアに挟まれている。
だけど、最低のライブになるのは目に見えている。
この数年前、京都のnanoでアンドヤングと対バンした時、メンバーの皆さんは随分とレテパを褒めてくれた。
その褒め方がすごく嬉しい感じの褒め方だったので、俺は今でもハッキリと覚えている。(連続飲酒状態だった2016年と2018年以外の年の事は割と覚えている。)

もちろんその日、レテパシーズは予定通り最低のライブをした。
ライブ後、楽屋に行くと、数年前にあんなに嬉しい言葉で褒めてくれたギターの方(お名前失念、すみません。カノウさんじゃ無い方。)から「随分と変わったんだね、、」と言われた。
自分が大好きなバンドの人の前で、自分でも最低のライブしか出来ないと確信した状態でステージに立つ。
そして案の定、大好きな人に失望される。
バンドをやっている人間にとっては、何よりも辛い事なんじゃないかな。
なので俺は自信を持って2017年を地獄と呼べる。

レテパの最低ライブの余韻に感化されたのか?
レテパの次の出順だったメシアのライブもあまり良くなかったと思う。
苛立った様子で、やたらと汗だくの北山君の姿を覚えている。
まあ、俺はそもそも鬱状態で何を見ても心が動かない時期ではあったのだが。
ライブ後に北山君がちゃんと落ち込んでいたので、やはり悪いライブだったのだろう。
メシアのライブ後、ベースメントスリーのビルの横の横の横?のコインランドリーの横あたりの駐車場に座って、北山君と話した。
その時に彼から「昔レテパのライブ盤LIVE AT MOTIONをタワレコで買って聞いていた」「とても素晴らしく、普段自分は日本人のバンドは聞かないがこのライブ盤には感動した」というような事を言われたのを覚えている。(多少言い方違うだろうが、許して。意味は合ってるはず。あと彼はコテコテの関西弁だから、関西弁に変換して下さい。)
一応関西弁に変換しておくと「普段日本人は聞かへんのに」という言い方が何だかとっても嬉しかったので、今でもこの会話は覚えている。

この後、レテパは崩壊や停滞や再生をして、2020年からは完全に復活した。
体調が回復して俺の外交も復活したので、ライブハウスにも足を運ぶようになった。
手帳の「好きなバンドメモ」に書いてあるバンド達のライブも久しく見ていなかったので、今でもちゃんとカッコいいかなー?どーかなー?元気かなー?と視察に行ったりしていた。
今日は自分の大変さばかりを書いてしまっているが、きっと他のバンドだって色々大変なのだろう。
俺が外交を遮断していた2〜3年の間に、消えてしまったり、続けていてもダメになっていたり、メモから消えていくバンドもたくさんいた。
そういう時、俺はとても悲しく悔しい気持ちになる。(レテパの「イカレた人」という歌がそういう気分の歌です。聞いてみて。)
あんなに素晴らしかったあの時期に、なぜもっとたくさんの人に見てもらえなかったのか、と。
バンドなんて、長く続ければ良い、というものでは無いので、短命なのは全然構わない。
が、素晴らしい時期があったのに、あんな白けて閑散とした、あるいはヘラヘラニヤニヤしたただの寂しがりやの社交場のようなライブハウス、で演奏していただけで終わってしまうなんて。
なんか、このまま舞台から去るのはどうしても気持ちが悪い。
これはもう、正しい正しくない、とかじゃなく、自分の性格の問題なのだろう。
なので、数年振りに見たメシアのライブには感動したうえ、とても嬉しかった。
とりわけ、去年ベースメントで見たメシアはとても素晴らしかった。
メシアのライブが良いか悪いかは素人でも簡単に判断が出来る。
今、彼らのアルバム「BOMB」を開き歌詞カードを見ているが、2曲目「band」の歌詞の通りなのだから。

バンドをやってる僕のこと
汚いでしょ ダサいでしょ
バンドをやってる僕の顔
醜いでしょ ブサイクでしょ
バンドをやってる僕の体
臭いでしょ 臭いがする
バンドをやってる僕の歌
綺麗だろ 綺麗になりたい

北山君の事がキレイに、美しく見えるんです。
そんな時はドラムのナツコの事もちゃんとキレイに美しく見える。
そしてきっと北山君が汚く見える時は、ナツコの事もちゃんと汚く見えるだろう。
要するに良いバンドという事。
一心同体、とかでは無く、一つの風景という感じだね。
美しい風景か、汚い風景か、今日の夕焼けがどんな風に見えるのか。
明日、そんな感じで眺めてみて下さい。
メシアと人人の2人の事を。

PS.来場した人に何か記念になるものを!と思い、急遽チケットを作る事にしたのだが、取り寄せたミシン目入りの用紙をコピーする術が分からず、、仕方が無いので昨日から全部手書きで書いています。
腕がもげそうになってきたが、たくさん来てくれると信じてまだまだ書いてみる事にしよう。
昨日これを見た友人に「え?なんでハンコ押してるの?」と言われてしまったが、俺が大切にしてきた思い出のチケット達には、何故かハンコが押してあったんだよね。
真似して押してみたが、変なのかな?
まあ、ご愛嬌という事で。
このチケットを宝物にしてくれる人がいると嬉しいです。
では明日!杉並のロサンゼルスで会おう!
ご来場お待ちしています!

昨夜は途中で失礼しました。
続きを書きます。

「親愛なるのりものについて」

まずはこちらをご覧下さい。
素晴らしいので。

「控えめに高く飛ぶ」/のりもの



彼らとの出会いは10年以上前だろう。
「のりもの」の3人(クソ虫、キクチ、カゲヤマ)が在籍していた「逃亡くそタわけ」というバンドとレテパシーズはよく対バンしていた。
その頃の逃亡の印象を正直に書くと「クソ虫、カゲヤマ君、キクチ君の3人は天才肌の化け物だ。楽器を持つと無敵になれるが、ギターボーカルのノリ(人名。グルーブ的なノリと意味では無い。)だけがちゃんと普通の人間で、楽器を持ってもまだ人間を捨て切れないでいる」という印象だった。
そんなノリの人間らしい暗さも俺は好きだったし、大きく分けると自分もそっちのタイプだと思うので、プライベートでもノリとはよく飲んだ気がするが、他の3人とはライブハウスでしか会わなかったと思う。

その後、俺はアルコール問題で数年間ライブハウスにも行っていなかった。
なので、その頃の彼らの動向は全然知らない。
2020年にレテパが復活してからは、外交も復活し、昔の知人にもたまに会うようになった。
が、彼らには会わなかったな。
俺の手帳の「自主企画に呼びたいカッコいいバンドメモ」にも毎年手帳を新調する度に「逃亡くそタわけ」と書いていたものだが、多分その頃はもう書いていなかったと思う。
逃亡、活動してたのかな?
が、勝手にもう活動していないような気がしていた。

そんなある日、俺は珍しく他人を殺しそうになった。
その頃住んでいた高円寺の街を歩いていたら、いきなり泣き声の男に声をかけられた。
「ああ!ひろしさんだ!助けて下さいー!」
見ると、カゲヤマ君だった。
明らかにパニックな感じになっていた。
どうしたのか訳を聞いてみると、目の前にいたガールズバー?のキャッチの男にしつこく付き纏われ、店に引きずり込まれそうになって困って泣いていたらしかった。
それを認識した瞬間の俺の殺気は凄かったと思う。
明らかにそのキャッチを殺そうと思った。
それは、カゲヤマへの友情や義侠心なんかでは無く、自分の信じている音楽の世界の才能、芸術、歴史に対する攻撃への反撃、という感じだった。
お前なんかが触れて良いものじゃ無いんだ。殺す。
自分でも気持ち良いくらいの瞬間的な青ざめた炎の沸騰だった。
察したキャッチはすぐに謝り消えた。
「ありがとうございますー!」と泣きながら笑うカゲヤマ君を見ていたら「こいつは本当にギター弾くしか無いんだな。羨ましいなあ。」と思った。
自分は彼と比べると、やはりあまりにも人間だ。

そして去年。
逃亡くそタわけの「人間以外の3人」が「のりもの」というバンドを結成している事を知る。
いつもならまず音源を聞くのだが、音源はまだ配信されていないようだった。
仕方がないので、普段あまりMVは見ないのだが、唯一の情報源だったので「控えめに高く飛ぶ」の映像を見てみた。
あはははは、天才3人が音を鳴らすとこうなるよな。
その日はずっと何度も何度もこの映像を繰り返し見た。

そして、すぐにライブを見に行った。
大塚のミーツ。
螺旋階段?を降りる途中、階下のクソ虫と目が合った。
何年振りに会うのだろう。
もちろん断酒後初めて会うので、シラフで彼の顔を初めて見る事になる。
まあ、変わらないクソ虫だった。
都会も田舎も似合う顔をしているな。
地球どこでも似合いそう。
海でも山でもメトロポリスでも紀元前の世界でも縄文時代でも人類滅亡後の地球でもどこでも違和感無さそう。
要するに良い顔。
書いてて思い出したが、昔クソ虫企画?(多分新宿ナインスパイス?)かなんかで、彼がステージでダッチワイフと戯れていた時にも、上記のカゲヤマの時と同じ類の気持ちで、なんか音楽や芸術の神様に背中を押されて俺も参戦してダッチワイフと戯れた気がする。
ひどく厳粛な茶番劇。

のりもののライブは全くの予想通りだった。
「予想通り」というのはこういう意味だ。

その頃の俺はライブハウスに行く度に悩んでいた。
カッコ良い、カッコ悪い、センスが良い、センスが悪い、とかそんなのは抜きにしても、なんで2023年のライブハウスで流れる音楽がこんな感じなんだ?
何をどう感じて生きていたらこんな風になるのだろう。
自分が歌い出したのが2000年なので2000年から書くが、
2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022
はどこに行ったのだろう?
この人達、どんな気持ちで生きているのだろう?
俺の感覚ってやっぱり少しズレてるのかな?
2023年のライブハウスに咲く花は、もっと違う花な気がするなあ。
ムカつくなあ、つらいなあ、もうやめた方がいいのかなあ、レテパ。

と思っていたが、目の前の「のりもの」の3輪の花は俺が想像していた花と全く同じ花なのでした。
大きさも、色も、香りも、根の強度も。(決して強い根では無い。意外と簡単に片手で抜けるコンクリートの隙間に生えてしまった雑草の花のあの感じだ。)
あーあ、安心した。
こうなるよね。そうこなくっちゃ。
俺と同じ気持ちの人達がいる。
なんて心強くて安心なんだろう。

終演後、キクチ君と少し話した。
あの素晴らしいのりものの歌達はキクチ君が作っているらしい。(ライブではクソ虫の作った歌も1曲?やっていて、それも良かった。)
キクチ君ともシラフでは初めてだし、あの頃の記憶はひどく曖昧なので、当時何を話したかなんて覚えていない。
ので、失礼ながら、初めて話した気になった。
初めて話したキクチ君は天才肌の化け物ではなく淋しそうな人間だった。
そういえばドラムを叩いている時も、昔と違いただの天才って感じでは無かったな。
あ、クソ虫もカゲヤマも前より全然人間だった気がする。
天才肌の化け物の3人が、自分の人生や人間の話を始めてしまった。
そんな感じがした。
そしてそれは、ずっと人間だった奴らなんかよりもずっと、人間の世界を純粋に見てしまっていると思う。
疲れる時もあると思うが、がんばって。
本当に貴重なバンドなんだよ。
引き続き、彼らの前に無遠慮な敵が現れたら迷わずぶっ殺してやりたいと思う。

PS.「親愛なるメシアと人人について」は明日にします。
すみません、今日はもう書けそうに無い。
お楽しみに。

PS.夏頃にレテパドラムの関口萌が復帰予定です。
これについては後日ちゃんと詳しくお伝えします。
よって鈴木亜沙美のドラムは今回のレテパフェスのみ。
せっかくなので初期のナンバーもたくさんやります。
あと、せっかくのブランキーなアディーとだから「思わずブランキー」もやる予定。
予習して来てね。(6thアルバム「アコースティック」収録曲です。あの歌の冒頭のタラタッタタがアディーは今の所苦手です。今夜もスタジオなのでみっちり扱こうと思っています。)

PS.予習して来てね、と言いつつ、未発表の10thアルバムからも4曲やります。
せっかくなので6/14までの期間限定で「歌詞」のページに歌詞載せますね。
読んで予習してみよう。

※加筆→文章冒頭に「①②③がある」と張り切って書いてます。
が、途中で力尽きました。
②③については明日書きます。ご容赦を。
以下本編。


第4回レテパフェス、いよいよ今度の金曜です。
今日は色々書きたいので、目次?みたいに番号振ってみます。

①レテパフェスについて

②親愛なるのりものについて

③親愛なるメシアと人人について

では、レッツゴー。

①「レテパフェスについて」

今回で4回目。
正式名称は「レテパシーロックフェスティバル」。
今となっては「ロックンロール」「ロックンロールⅡ」なんて歌もあるので、このイベントタイトルに違和感を感じない人も多いかも知れない。
でも、自分としては音楽ジャンル的にもフォーク、ブルース、ジャズ、という感じでロックというジャンルには一番親しみが無かった。
なんなら、例えばチャボとかシオンとかどんととか、ロックっぽいアレンジの歌よりも、遅くて静かな感じ(メロウ?ナロウ?英語は苦手)の歌の方が好きだったので、ボガンボよりも、どんとソロの「ゴマの世界」を何度も聞いたし、シオンも「蛍」「きれいだ」「元気か」「早く帰ろう」「Machiko」「Once Only Love」なんかが大好きで、シオンさんには悪いが、ロックっぽい歌は結構飛ばしてアルバムを聞いてしまっていた。(浅川マキなんかもたまにロックアレンジみたいなのが来ると台無しになる事が多かった。なのでハッキリ書くと「ロック」には恨みの方が強かった。)
今こうやって歌のタイトルを書いてても懐かしくなるが、10代の頃はシオンのこんな優しい歌達の中にずっと住んでた時期があった。
が、サブスク配信ではシオンは中期以降のアルバムしか配信されていないので、この辺りの歌はCD買わないと聞けないよ。
と書いてみて、今一応見てみたら、、
初期のシオン配信されてるじゃん!ぎゃー!大事件!
よく「ブランキー、ブルーハーツは配信されてない最後の砦だ!」なんて声を聞くが、俺としては「シオンの初期」と「友部正人の初期」と「AZUMIの全て」が配信されたら今後の日本の音楽は大きく変わるだろう、と思っていたので、嬉しい。
これで日本音楽史の未来が少し明るくなったな。
これから歌い出すキッズ達もガラスのハートをブンブン振り回しながらすくすく健やかに育つ事だろう。
上記のシオンの歌なんかを聞くと「お!古宮大志はシオンの影響でかいな。」と思う事でしょう。
でかいでかいよ。そりゃそうだ。
10代の頃、本当に助けられたんだから。

シオンのせいで話が外れた。
戻します。

何が言いたかったかと言うと、自分としては「ロックフェスティバル」というタイトルを付けるなんて夢にも思わない10代20代30代だった。
2度目の結婚式が偶然6月9日だったのだが、それを知った古い友人にも「らしくねーな。一体どうしたんだ?」と言われたくらいだった。
では、この「レテパシーロックフェスティバル」というタイトルをどうして付けたのか?と聞かれたら「なんか最近、ロックが、助けてー!とレテパに訴えかけているような気がしてきたから、、空耳かしら?でもハッキリと聞こえるんだよなあ、、」と答えるだろう。
ちなみに、レテパのメンバーで言うと、はなえもん(2015-2017)が唯一のロックンローラーだったと思う。
他のメンバーは、パンクス、ブルースマン、J-POPマン、バンドマン、という感じ。(もちろん全部褒め言葉。)

あと、最近のレテパのライブ中、いつもの「喜怒哀楽全てを出し尽くした後のレテパシー大放出」のその先に、もう一つ小部屋があるような気がする時がある。
なんかそこは「ロックンロール関連」の部屋な気がしている。
次のレテパフェスでも、無事にこの小部屋をノック出来たら嬉しいな、と思っている。
その部屋は決して大きな部屋じゃない気がする。
1人しか入れないくらいの小さな部屋の感覚。
このバンド、まだ次の部屋があるんだなあ。
まあ、幸せか。だってバンドマンなんだから。

久し振りに文章書いたら、なんか楽しくてイベントタイトル説明だけで長々と書いてしまった。
今日は②③と続くので①をまとめます。

さっきちょうどシオンとか書いたからちょうどいいや。
簡潔に書くと、有名無名関係無くカッコいい人々のみを集め、このフェスを野外でドカーンとやりたい、のです。
俺は昔の文学の世界のような感じにしたい。
有名な大家も無名の新人に影響を受けて、いつまでも緊張していてほしい。
無名の新人には「いいものを作れば先人達に絶対に評価される。もしかしたら酷評かも知れないが、少なくともちゃんと見ていてくれている」という安心感とドキドキで胸がいっぱいの日々を過ごしてほしい。
有名な大家にも無名の新人にも、ちゃんとした絶望や希望を胸に秘め音楽活動をやっていてほしい。
今の有名音楽界や無名ライブハウス界隈両者に蔓延っているあの諦めの感じでは無くてね。(心のないやさしさは敗北に似てる、か。ほんとそうだな。)
最近は「サブスク配信」により有名も無名も同じ土俵に立てるようになった。
これからは、昔の文学誌、同人誌の世界のように純粋な「作品至上主義」の世界になっていくと信じている。
もしかしたら、俺が生きている間には全然無理かもしれない。
そんな簡単な事じゃないんだなあ、と思い悲しくなる事も多い。
けど、なんか楽しくて嬉しくてうまくいきそうな気がする時もある。
でも、前方の光。といったところでしょうか。

まあ、20代だった2000年代。
30代だった2010年代。
グデングデンのゴーロゴロだった自分が悪い。
でも、歌だけは腐らずに残った。
から、良しとしよう。

レテパフェスは2024年に第4回、5回。
2025年に6回、7回、8回、9回。
そして、2026年夏の第10回でイメージ通りの野外フェスにしたい。
我々レテパシーズはそんな夢を見ています。

まずは次の金曜日。
第4回レテパシーロックフェスティバルでお待ちしております。

PS.自分はよく初対面の人に「暗くて怖いイメージだったが、こんなにも明るいおしゃべり男なんですね。」と言われます。
なんで、怖いと思われるのか分からないが、今日みたいな文章が真面目過ぎる印象なのかなあ?
ハッキリ言って、俺を含めレテパシーズは基本的に人生を舐めきった不真面目集団だと思う。
うまく言えないが、レテパフェスはちゃんと楽しい感じのフェスティバルでもあるので、しのごの言わずに楽しみたいあなたもぜひぜひ。
文章にすると固いかもだが、初見の人でも居心地の良い空間だと思いますよ。
そして、レテパフェスは映画館に似てる、という人もいます。
映画館に似ているのなら、やはり映画館を出た後の街の光がどんな風に見えるかが勝負な気がするね。


※ご予約は↓
こちらまたはツイッターDMまで!

あ、チラシの感じが暗いのかなあ。
次からは他の人に作ってもらおうかな、、

あ、しかもまだ梅雨来ないじゃんねえ、、
故郷の北国では梅雨が無いから、時期が未だに掴めない、、
まあ、雨じゃなくてもロサンゼルスクラブの目の前の青梅街道が帰り道にキレイに見えますよーに。

なんか、このPS.うまく書けなかった気がするな。伝わったかな?
要するにレテパフェスは「楽しみたい人も悲しみたい人もカモンカモン」なフェスなんです。
あ、キャッチコピーが出来ちゃった。

PS.今の無名状態のレテパフェスから見てくれている人がいつか「わしは伝説の第4回を見とるんじゃ。のりものではクソ虫が、メシアでは北山が、レテパではヤハタが楽器をへし折ってしまいそれはそれは壮絶な第4回じゃった。ほれチケットもあるぞい。」なんて自慢できるように自作のチケットを作ってみようかな、なんて思っています。
が、なんせデジタルに弱いバンドだから、結構手作り感満載になるかも。
いつも来てくれる人に何かお礼がしたいから「第4回のチケットを第5回来場時に持参すると入場料半額!」みたいな事も考えています。
お楽しみに。

PS.今回の会場はロサンセルスクラブです。東高円寺です。
第1回〜第3回までは新宿歌舞伎町のMarbleでした。
今回の会場変更、すごく迷いました。
昼間のマーブルにも行き、マーブル鈴木店長とも色々お話ししました。
一応誤解無いように少しだけ、今回の会場変更について書きますね。

今回の離婚騒動の時に改めて現実を見ようと思い、レテパシーズの運営についても直視してみました。
改めて見てみると、それはあまりにも赤字覚悟過ぎました。
良いものを作っているのだから金なんかどうでもいい、いつかなんとかなるさ、という考えの元、借金は膨らむ一方。
本来なら身分相応な活動に変えて「アルバムは数年に1枚出せたら幸い」「スタジオ回数も減らす」「集客が弱いのなら自主企画はやめる」「ましてや過去作のリミックス、リマスター、なんてもってのほか」といった事になるのでしょう。
でも、やはり自分達は回遊魚タイプなんです。
せっかく行きたい所があるのだから、やはりそこまで全速力で泳いで行きたいのです。

毎回のレテパフェスやレコ発ライブ、Marbleの厚意で滅茶苦茶ありがたい使い方をさせてもらっていました。
が、今のレテパフェスの規模感だと、恥ずかしながらマーブルの大きさでも大き過ぎたのです。
もう少し小さい場所じゃなきゃ、厳しいな、、と考えていた時に、ロサンゼルスクラブが浮上してきました。(今、カニ一族が経営している。最近カニ父がオーナーになったので。)

まずはロサンゼルスを満員にする。
そして次はマーブルを満員にする。
そして次は、、次は、、
なんだか、夢見るバンドマンって感じだね。
楽しいや。がんばります。見てろよ。見ててね。

冒頭に加筆したが、ここで力尽きた。
②③は明日書きます。
お楽しみに!

6thアルバム「アコースティック」のリミックス、リマスターを行いました。
同時進行で新作10thアルバムのマスタリングも行っていたのですが、6thの出来が素晴らしすぎて、10thはミックス作業からやり直す事にしました。
それくらい素晴らしい6thアルバムになりました。
6thリミックスの作業は馬場友美が行い、カニユウヤと俺が立ち会ったのですが、作業中にカニ君に「この6thアルバムはレテパの作品の中でダントツに再生数が少ないんだよ。」と伝えると、たいそう驚いていました。
「え!?こんなにも名盤なのに?」と。
俺の予想だと「ジャケが俺1人の写真」「タイトルがアコースティック」という事で、特殊なソロ寄りのアルバムだと思われているのでは?と睨んでいます。

「アコースティック」ってタイトルですが、使っている楽器はいつもと同じです。
ただなんか「アコースティック」って言葉が似合うアルバムだと思い、このタイトルにしました。

「ジャケが俺1人の写真」なのはコロナの時期だったし、そもそもメンバー全員で撮影に行く金も無かったし、、で1人の写真になりました。
このジャケの写真は、俺の故郷月形町南耕地にある思い出の三角屋根の家の前の道で撮影しました。(ソロのアー写とかでよく使ううんこ座りの写真は、三角屋根の隣の南耕地神社の土俵の上で同日に撮影しました。今は草ボーボーで土俵だと分かりませんが。昔は相撲大会をやっていた)

今回、リミックス、リマスターを行ったのは「このアルバムが行きたい所に行くのを俺の古い感覚が邪魔をしているな」と前々から思って後悔していたからです。
今回の作業により、このアルバムが本来行きたかった所へ連れて行く事が出来たと思います。
これで無事、大名盤、代表作になれました。

でも、すぐに10thで必ず超えます。
最近俺はずっと10thアルバムの事を考えながら生きています。
6thアルバムの持つ緊張感のある儚さみたいな感覚が、10thにもちゃんと生まれれば10thアルバムが文句無しの代表作になると思う。
それまではこの6thに代表作の座を譲ろうと思っています。

みなさん聞いてみてね。

僕のレテパシーズ6thアルバム
「アコースティック」2024 Remaster

1.旅に出るなら
2.いつも心だけはあの日陰で涼ませたまま
3.廃墟
4.春
5.調布飛行場
6.夕立が降ってる
7.炭住の赤い屋根に
8.月形
9.猫との午前
10.思わずブランキー

録音メンバー
Vo.古宮大志
G.高野京介
B.タカユキカトー
Key.ハダユキコ
Dr.関口萌

録音(2020年)/タカユキカトー
リミックス/馬場友美
リマスター/中村宗一郎

夜に名前を(YORU-06)

各配信サイトはこちら

PS.レテパツイッターの方で全曲解説してみようと思っています。
お楽しみに!

PS.一応説明しておきますが、上記の「夜に名前を」(YORU-06)はレーベル名と品番です。
1stアルバム「僕を殺せるのは僕だけさ」を流通する際にレーベル名と品番が必要だったので、その頃お気に入りだった「夜に名前を」という歌をレーベル名にしたのでした。(3rdアルバム収録曲)

PS.リミックス作業中にカニ君が「猫との午前のギターを弾く為に高野さんはレテパシーズにいたのかもしれないですね。」とポツリと呟きました。
もし俺の葬式のクライマックスで1曲流すとしたらこの歌が良いと思います。
それくらい素晴らしい。
誰が喪主になるのかは分かりませんが、ここに明記しておくのでよろしく。

PS.先程書いた「うんこ座りのアー写」と「在りし日の相撲大会」の写真です。
月形町南耕地神社の土俵の上。30年前の同じ場所。
三角屋根の元実家は神社の横に今も空き家で残っています。
7才から13才まで住んだ思い出の家、俺の故郷です。


↑奥が南耕地神社。


↑左が8才の私。
この頃は「若貴ブーム」だったので勝つと若貴カンペンや若貴シャーペンがもらえました。
すでに子供が少ない限界集落だったので、何度も何度も戦って若貴グッズをたくさんもらったものでした。

我が故郷の三角屋根。(この家は300坪の畑付きで200万円だったらしい!)

2000年5月
友人の家で新聞広告を見せられる。
そこには「最高傑作を世に放ち解散します」なんて書いてある。
その最高傑作を彼はもう入手していたので「聞く?サイコーだよ。」と勧めてくれたが、気に入らない歌を聞くと極度に疲れるので慎重になり「いや、とりあえず歌詞カードだけ見せて。」と1曲目の歌詞をだけを読んでみた。
そこには「Spark Jet City チェリーソーダとチェリーパイ」なんて書かれていて「チェリーにチェリーは合わないだろ。甘酸っぱ過ぎてお互いの良さを消しちゃうだろ。」とは思ったが、英語まじりの歌詞だったし、どうせビジュアル系の一種だろうと思い、その最高傑作を聞かずに彼の家を後にした。
外に出て1人になった瞬間、CDウォークマンのイヤホンを耳に刺す。
刺した傷穴に遠藤ミチロウの詩の朗読「パティ・スミスの『ラジオ・エチオピア』が聞こえる」を爆音で流し込み止血する。
親の影響だろう。周りよりも早熟だったので、音楽や文学の話は友人達と全く合わなかった生意気盛りの北国の高校3年生。
まさか、チェリーソーダとチェリーパイのビジュアル系バンドのドラマーがミチロウさんのスターリンに在籍していたなんて知りもしない、はやとちりの田舎者。

2001年夏
高校卒業後、札幌市東区にて一人暮らし。
バイトを転々としながらソロで歌ってた。
ある日友人から「タダでライジングサンに入れるよ。」と誘われる。
行ってはみたものの楽しくなくて、音楽の聞こえない場所を探し、会場内をフラフラとする。
すると20〜30人位の小さな人だかりが。
ステージも何もないところに、ドラムセットとキーボードだけがポツリと置いてあった。
そこへ、刺青だらけの男がトコトコと歩いて来た。
ドラムの前まで来る。
歩調や速度を全く変えずにバスドラの上にトンッと乗っかる。
そして「昨日ススキノ歩いとったらよー、おもしろいピアノのおっさん見つけたから何かやってみるわあー。」と言い放つ。
ひらりとそのまま椅子に着地したと同時にドコドコドコー!と叩き出した。

その一連の動きがあまりにも自然体で見事だった。
普通「バスドラに乗っかって客席に何かを言い放つ。しかもゲリラ的なライブ」という状況だと、誰もが力むだろう。良くも悪くも。
が、彼はあまりにも自然な動き。
バスドラに飛び乗る時にも、歩幅や速度が一切変わらない、普段通りの当然の一歩。
客席に口上をぶちまける時も「長年連れ添った老夫婦が交わす呼吸のようないつものおはよう」くらいの当たり前な態度。

こんな人間見た事ないな。何なんだろう、この人。と衝撃を受けていたら、隣の若者が「達也だよ!達也!」と騒いでいる。
俺は「どこぞの達也だろう?」と思いながら演奏を見ていたが、ピアノのおっさんは本当に「昨日ススキノで拾ってきた見ず知らずのオッサン」だったのだろう。
つまらない演奏だったので、彼のドラムにもそこまで感動せず、退散。

でも「一体どこぞの達也だろう?」との思いは心に残る。

2001年秋頃
札幌中心部のピヴォという大型書店で1冊の本が目に止まる。
直感的に開いてみると「どこぞの達也」がそこにいてビックリ。
さすがに運命を感じ、買って家で読んでみる。元気が出てくる。
小さい頃からの違和感が一気に解けていく。
ああ、俺と同じ感覚の人達は存在するんだな。

自分の「暗い部分」において上記の感動を与えてくれる人には何度も出会った。
そしてその人達に救われて生きてきた。
が、自分の「明るい部分」においてこの感覚を持つ事は今までに無かった。
おそらく自分は元来明るい性格なのだろう。
この本を境に、明るい部分が表に出て来て、暗い部分はたまーに現れて大暴れする、という感じになった。
今でもそうだ。

その頃住んでいたアパート(北17条西3丁目コーポ幌北)の裏の中古CD屋ビークラブで「歌詞カード無し、キズ有り、1000円」の「Bang!」を買う。
とても感動した上に、最近の音楽(それまで60年代〜70年代の音楽を中心に生きていた)で感動する事が極度に少なかったので、その部分でもえらく揺さぶられた。
現代、現実、が一気に自分に関係してきた感覚があった。
簡単に書くと、嬉しくて生きる力がどんどん湧いてきた。

ブランキーを聞いて、影響されて、まずやる事は人それぞれだろう。
俺はプレスカブを買い、テントと寝袋と地図だけを持って北海道ツーリングの旅に出た。

※上記の本のタイトルは「ワイルド・ウインター」です。
皆さんもぜひ。

2002年
上記の「現代、現在、が一気に自分に関係してきた感覚」はブランキーショック以降も続いた。
ガールフレンドが持っていた「ナンバーガール」もかっこ良かったし、この年の春に発見した「ROSSO」の1stアルバム「BIRD」を聞くと自分もバンドを組みたくなってきた。
出来る歌も明らかに変化した気がする。
歌が出来る時に頭の中でバンドサウンドが鳴るようになった。
この後、1年間だけバンドを組み、解散するまでの間はバンドっぽい歌がたくさん出来た。
解散後にはまたフォーク少年に戻ったのだが。
ちなみにこの頃の作曲でレテパシーズのアルバムに収録された歌は「SFマンボ」「空知」「札幌ナンバーの最後」「ミツバチ」「そしてトンキーは死んだ」「水平線」「東区が恋しくて」「雪包丁」。

バンドを組むと不思議なもので、同世代の友人がたくさん出来るようになった。

2003年初夏?
自分のバンドのレコーディングを161倉庫と同じビルの1Fにあるスタジオミックスで行った。
前日にロックンロールバンド(懐かしの「テキサスパコ」)を見ながら踊っていたら右手が折れてしいまい、風邪もひいて鼻声で、満身創痍のレコーディングだったが、ブランキーショックのおかげで平気に明るく録音出来た。
録音が終わり、地下の161倉庫に降りてみると、おしゃれな感じの若者のスリーピースバンドが演奏していた。
今時の売れ線な「ナンバーガールやフィッシュマンズあたりの影響下にある」感じのバンドに見えたが、後ろにいたドラマーに目を奪われた。
人間界に野生動物が混ざっちゃってるよ!と思った。
その野生動物は誰かに似ていた。そしてすぐに気付いた。
それは「どこぞの達也」だった。

演奏が終わり、話しかけた。
「すごくカッコいいね!これ俺のバンドの出来立てホヤホヤのアルバムなんです。良かったら聞いてみて下さい!あ、でもこれ入稿用のマスターCDらしいから必ず返してね。」

後日彼女はちゃんとCDを返してくれた。
そして無事に感動してくれたらしい。
俺達は仲良くなった。

2003年秋頃?
俺のバンドのドラムが抜けてしまい、急遽代打で彼女がドラムを叩く事になった。
ライブの前日に161倉庫を借りて練習したのだが、3人とも大興奮だった。(古宮大志、古宮夏希、鈴木亜沙美)
これはすごいバンドだ!運命の3人だ!と全員が同じ気持ちを持ったと思う。
が、おそらくそこで全てを出し尽くしてしまったのだろう。
次の日「MOON PALACE」で行われたライブはまあまあの感じだった。

2005年
2003年頃かな?ナンバーガールがいたメジャーレコード会社に「空知」のデモテープを送ったら東京から業界人が会いにきた。
それで舞い上がった俺は友達全員に「今度メジャーデビューするんだよねー。多分。おそらく。きっと。」と得意気に言いふらしてしまったが、すぐにバンドが解散してしまい、話は頓挫した。
ちなみに解散した原因は「ふるちゃんばっかりちやほやされるのは癪だ。私には私の歌がある。自分のバンドを組むわ。」と言い残し、古宮夏希が勝手に脱退したせいだ。
俺はメジャーデビューする、と言いふらしたくせに頓挫したのもきまりが悪いし、得意のリセット癖で「さようなら札幌。東京に引っ越そう。」とリセットボタンを押してしまった。

夢の東京だ!ワクワク。という感じの上京では無く、ヤケクソに似た逃避の上京だったので、ノープランですぐにホームシックにかかり、ボケーっとしながら悲しく暮らした。
が、多摩川や多摩丘陵をぼんやりと眺めながら出来たたくさんの歌達は、今でもレテパシーズの大切なレパートリーだから、絶対に必要な時間だったんだよなあ、と今では微笑む事が出来る。

2010年
「僕のレテパシーズ」結成。
札幌のアディーに電話してドラマーとして誘う。
が何やかんやと言い訳を言われ、断られむかつく。
ドラムは結局、藤原リョウタが叩く事になった。(現「五月リョウタ」※週刊ラジオレテパシー局長)

上京しないアディーにむかついていたら「旅に出るなら」という嫌味な歌が出来た。
※現在リミックス、リマスター中の6thアルバムの1曲目。
まもなくリリースです。お楽しみに。

2011年
「ケツが痛くてもうダメですわ。」と言い残し、藤原リョウタが脱退。
アディーに電話するも、何やかんやと言い訳を言われ、また断られた。むかつく。
ドラムはにたないけんが叩く事になった。

2013年
にたないけんがちょっとグロい失恋?のショック?でバンドを去る。
アディーに電話するも「今なら行きたい気持ちは山々なんだが、上京する金が無い。から金が貯まるまで待って。」と言う。
むかついたので「じゃあ、俺がアパートから引っ越すから俺のアパートにそのまま住めば良い。それなら敷金も礼金もかからずに飛行機代だけで明日にでも引っ越せるだろう。」と提案し、解決。
なので、アディーは古宮大志として方南町のアパートに住む事になった。

2017年
俺の第一次断酒の影響でレテパがダメになってきた。
3rdアルバム「永遠に、たまに」完成後、はなえもんとアディーが抜けた。

2024年4月
ハジメちゃんから「ここで一度休ませて。必ず戻るので。」と伝えられる。
俺はアディーに電話した。
アディーは「声かけてくれてありがとう。叩くよ。光栄です。」と言った。

PS.写真ははなえもんが描いた2017年頃の4人のレテパシーズ。
この頃はこれをアー写にしてた。
さすが、はなえもん。
あの頃の絶望のカラーがよく表現されています。


これは2016年「愛してるよ」の頃のライブ。
この頃は崩壊寸前の明るさがあったね。


なんの写真だか分からんが、珍しくツーショット。
というわけで、アディーよろしくね。
2003年、俺達が初めて演奏したあの伝説の夜「MOON PALACEのライブの前日の161倉庫での最高の練習」を余裕で超えようぜ。

まだまだ旅は続くのです。