「札幌ナンバーの最後」
死にたくなる時は左手を胸に置き
出来るだけ遠くの空を見つめていよう
海まで9kmの青い看板の下で
優しくなりたいね お前の言葉を聞いた
もしも今、キヨシローに愛し合ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう
あいつが死んだ時 キャメルのラクダが泣いた
その歌が遠くの戦場で雨になった
生まれ変わる時はテレビなんかないとこで
戦争が起きても気付かずに笑っていよう
もしも今、キヨシローに夢を持ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう
夜の街 雪が降り 札幌ナンバー ペシャンコ
あーキレイだなあ
もしも今、キヨシローに愛し合ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう
夜の街 雪が降り 札幌ナンバー ペシャンコ
あーキレイだなあ
2ndアルバム「愛してるよ」収録
(2002年作詞作曲)
前回の「プレスカブのスピードで」の解説で、色々なアルバイトをしていた事を書きましたが、この歌は警備員をやっていた頃、2002年に出来た歌だと思います。
警備のバイトはどの現場に行っても、大体ムカつく先輩がみたいのがいたから、いつもなら初日で辞めるパターンだったのですが、世話になったエルビス系ロカビリー歌手(名前は確かトマソン清水)の人が紹介してくれたバイトだったので、その人の顔に泥を塗るようなマネは出来ず、仕方なく契約の3ヶ月間働きました。
3か月の間に、10か所以上の現場に行きました。
厚田の山奥の現場では、近所の漁師の人が大量のホタテ(数にしたら100個以上)をくれたり、地元岩見沢(札幌から車で1時間位です。)の国道12号線沿いの現場は母校の生徒の通学路なので、卒業からまだ2年しか経っていないのに、俺はもう優しい気分になっていて、学生を眺めながら、あの頃の事を懐かしく思い出したりしてました。(あんなに殺伐荒涼としてたのにね。)
そんな中でも思い出深い現場が、札幌市南区(「芸術の森」あたり)の住宅街の現場だ。
この現場は深夜の時間帯で、ほとんど車も通らないような道を片側交互通行(カタコー)にする現場。
よく札幌で熊が出た、というニュースをやっていますが、これは大体この南区のあたりですね。まあ山の中に住宅街がある感じです。
真夜中、シーンとしていて、現場も一人でやっていたから、邪魔するものが何も無く、何曲か出来た。
「ミツバチ」「SFマンボ」「札幌ナンバーの最後」他にも多分何曲か。
※「SFマンボ」はアルバム収録時「精神障害者は天使 ちほう老人は神様」というタイトルに改題されてますが、やはり最初の「SFマンボ」の方がしっくりくるので、増版の際は戻す予定です。この経緯はSFの解説の時に詳しく書きます。
余談だが、この現場の道を通る数少ない車の中に、アディー(元レテパドラマー鈴木亜沙美)の母親がいたらしく、俺はまだアディーとは知り合いでは無かったが、ヘルメットから溢れ出る尋常じゃ無い毛量がこの住宅街にインパクトを与えていたらしく「凄い頭の警備員がいるよ!」と町内の噂になっていたらしい。
後日、知り合いになったアディー母が「ああ!あの時の!」と言っていた。
もし、俺の歌を前期やら中期やら時期を分ける評論家がいたならば、最初の歌「僕の頭が火事になったら」~「夕立が降ってる」あるいは「地下室の外は」で一区切り。(これは「夕立派」「地下室派」意見の分かれるところだろう。評論家泣かせだ。)
そして「札幌ナンバーの最後」で第二部スタート。これは皆様満場一致だろう。
そして本人にも明確に変わった意識がある。
アルトサックスを投げ出して、歌い出してからずっと、ガットギター(そう言えば2000年頃ガットと複音ハーモニカでやってたら、いつも珍しがられた。今は珍しくないけど。いつも時代を先取りし過ぎる傾向にある。「食べるラー油」も世間のブームの5年前にはブーム去ってたし。)でソロで歌ってました。
ジャズの影響か、歌いながら感情で速度を速めたり遅めたりとか、無音と有音を同等に扱うとか、それはソロでしか出来ないし、自分がバンドを組んだり合奏したり、なんて一生無いと思ってた。
普段はソロのくせに、CDだとバンドになっていたり、のCDも嫌いだった。
(今でもそうだが「普段通り」じゃ無い事が極度に苦手だ。)
普段をなめんな、という気持ち。クレイジーで素敵な普段を目指そーね。
で、変化は2002年の春、北12条の環状線沿いのツタヤにて起きた。
ROSSOの「BIRD」を試聴したのです。
1曲目を聞いて「お!カッコいいー!」2曲目「シャロン」で「俺もこういうバンドを組もう。」というわけです。(先日の「アズミ」の学祭のステージで「ミッシェル」とありますが、これまた悪い意味で早熟だった俺は小馬鹿にして聞く耳を持たなかった。ので、正式?純粋?に未知の新人バンドとして聞いた。)
16才のハイロウズ「千年メダル」の衝撃も「バンド組もう」とは全く思わなかった。バンド組もうなんて、人生で今回初めて。
CDはとても素晴らしかったし、歌詞カードの最後のページの照ちゃんの笑顔がサイコーにイカしてた。
ボーカルのチバ(レテパ初期に西荻窪のスタジオUENで練習してると、他の部屋で歌うチバの歌声がよく混線して俺の部屋のアンプから聞こえてきてた。彼らは2階の大きな部屋、俺らは宇宙船みたいな白い照明の小さな部屋。セブンティーンのPVに出てくる。あのPV雪じゃない部分は大体西荻。)はパンクな笑顔でキメてたが、照ちゃんは二カッ!と笑ってて、その笑顔を見てたら、バンド組むしかない、と思った。
それで、その頃から歌が出来る時は、頭の中でバンドサウンドで出来るようになってしまった。(2004年~2010年はまたソロの頭に戻る。)
周りにいた人間の中からメンバーを捜し「アシカラズ」というバンドを組んだ。
https://tower.jp/item/1079219
↑アルバムも作った。レテパでやってる歌だと「空知」「札幌ナンバーの最後」「SFマンボ」がアルバムに入ってる。
この辺りの事は長くなるから、ちょっとだけ書くと、
活動自体は1年位(2002年~2003年頃)だったし、ライブもCDも力んでばかりいて、まともな活動は出来なかった。と思う。
アルバム録音時はひどい風邪で鼻声で、しかも前日161倉庫でテキサスパコというバンドのライブで踊って手を骨折してた。
それでも、噂を聞いた(どこからだ?マジで。)東京のレコード会社の人が「原石だ!」っつって札幌まで会いに来たりした。
だがやはり原石過ぎたのか(原石っつーか調査発掘前の鉱山みたいなレベルだった。まあ、信じて掘れば大金稼げただろうがね。)業界人は去って行き、その後その部署からはフジファブリックというバンドがデビューしてた。
すげえ探したら当時の試聴サイトとかあるかもだが、恥ずかしいから探さないでね。
札幌ナンバーの最後の歌詞に出てくる
「海まで9キロの青い看板」は161倉庫の前の旧石狩街道に「石狩 9Km」という青看板があって、それの事だが、後で考えてみたら、これは石狩市まで9キロなのであって、海まででは無い。
札幌市民だった2001年~2004年までは海と言えば石狩か小樽だった。(カブで一人でよく釣りに行った。)
「キャメルのラクダ~」周りにキャメルの愛煙家達が多かった。
「もしも今、キヨシローに」忌野清志郎、昔、何かのインタビューでキヨシが「愛しあってるかい?ってこっちは本気で言ってるのに、あいつらヘラヘラ笑ってるんだよ。」って言ってたのが忘れられない。
もし不良少年に「ひろしさん、俺キヨシローって聞いた事無いんすけど、何から聞けば良いですか?」って聞かれたら、「ライブ帝国 RCサクセション70’s」のDVDを薦めます。
「その歌が遠くの戦場で」当時テレビではアフガニスタンの戦争の映像が毎日流れてた。
(前年の9.11の時は部屋にテレビもネットも無かったから、ラジオで聞いてた。)
この歌は2ndアルバム「愛してるよ」に収録されています。
廃盤になっている「アシカラズかっこいい」「LIVE AT MOTION」「ぴりぴりのファースト」全てに収録されていて、過去に一度アレンジした歌を再アレンジするのは難航する事もあるが「愛してるよ」では素晴らしいアレンジをメンバーが考えてくれた。
この辺りからアレンジの際にメンバーに最初からあれこれイメージを伝えるのは止めて、まずはメンバーの感じを聞いてみる、というやり方に変わって来た。
ハッキリ書けば、メンバーを信頼するようになった。
ギターのはなえもんはこういう演奏が得意分野なのか、いつもは上手く弾けずに大変そうだったが、水を得た魚のように、得意気に弾きたおしてた。
逆にアディーはこの手のは苦手だったらしく、最初苦戦していたが、数日経つと何かの訓練?修行?をしてきたらしく、自分の物にしていた。(イントロのスネアをタララララララー!ってやるやつね。)
このアルバムは吉祥寺にあるGOKというスタジオで馬場友美が録音した。
GOKはアナログテープ?(俺はよくわからん。)での録音で、大きなオープンリール?がクルクルカシャカシャ鳴っていたのを覚えている。
アナログ録音でみんな嬉しそうだった。
レテパは貧乏なのに、録音時には金に糸目をつけない事で有名だが、多分4枚中1番金かかったアルバム。
それでも馬場ちゃんの愛の力により、かなりありがたい金額なんです。
そろそろ出世払いしなきゃなあ。
↓俺のハートをわしづかみにした照ちゃんのニカッ。
↓PVはベース飯田裕の知り合いの、はまいばひろやさんが撮影。
場所は千葉の方だったはず。多分。
なかなか過酷な撮影で、1日の予定が日が暮れてしまい、急遽近くに宿泊し、日の出と共に残りのシーンを撮影した。
(宿泊所には卓球台があり、みんな死ぬほど疲れてたのに、飯田とユキコは遊具を見ると遊ばずにはいられない根っからの遊び人で、寝ないでずっと戦っていた。エンジョイ気質もここまで来るとさすがに凄味があるな、と少し尊敬した。)
俺は言われるがままに、道路に寝転んだり喫煙したりした。
最後のシーンはずっと激しい尿意と戦っていたが、なかなかカットにならず、小便できず、監督の「はい!自由に動いてー!」の鶴の一声で自由に動きました。