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「愛は風景」

たとえば 雨の信号
たとえば 雨の少年
たとえば 笑う少年と僕ら
たとえば 思い出の海

愛は思うものじゃなくて
愛は感じるものじゃなくて
愛はただの風景だから
僕はただ眺めてる

たとえば あの頃の事が
たとえば 冗談みたいに
たとえば 思えるような静かな夜の
街を君が訪れても

愛は触れるものじゃなくて
愛は過ぎていくものじゃなくて
愛はただの風景だから
君もただ眺めてね

愛は消えるものじゃなくて
愛は消えないものじゃなくて
愛はただの風景だから
僕も君も眺めてる

1stアルバム「僕を殺せるのは僕だけさ」収録
(2009年作詞作曲)

「7月12日、13日」

色とりどりの光の下に集まる時は歌う時
蛍光灯の下に僕らが集まる時はどんな時?

君の家のそばの会館で今日は君のお葬式
はじめて来たよ 君のギターが君がいないのにあるとこへ

レスポールジュニア ジャズコーラス 
ジョニサン ラモーンズ RCサクセション

君の部屋から運ばれたもの

新琴似っぽい住宅が 夕焼けの中 続いている
黒い影よりも黒い服とそれよりもっと黒い夜と

みんなの吸いすぎたタバコの煙が空に昇っていく
煙は雲になり次の日の朝早くからの雨になる

トムとジェリー ドラフトワン
君のお父さんとお母さん

君と一緒に暮らしてた人

知ってる人や知らない人が色んな事を話している
怒る人 泣く人 笑う人 みんな君を意識しながら

未来の事も過去の事も同んなじように話しましょ
雨の中 君を忘れたら 君は僕になるのだろう

猫背 泥酔 ロックンロール
悪い評判 僕に優しい

僕も君に優しかったもんね

君は僕に優しかったもんな

4thアルバム「ブルースマン」収録
(2009年作詞作曲)

前回の「MOON PALACE」の解説で、少し触れましたので、今日は1st「僕を殺せるのは僕だけさ」から「愛は風景」と4th「ブルースマン」から「7月12日、13日」のダブル解説です。(同じ日の事を歌っている歌なのでダブル。)

MOON PALACEに出入りしていたのが、2002年頃、札幌での事。
その後、2004年に川崎市稲田堤に引っ越します。
引っ越してからの活動を簡単に振り返ると、、

2004年~2007年はひたすらに古宮大志ソロ。
自主企画「自画像コンサート」をやったり、10曲位出来たら「古宮MAP」というアルバムを録音する、という日々。
「古宮MAP」作りはレテパが始まるまで続き、古宮MAP7まで作りました。

2008年には「古宮夏希&コークスが燃えている!」を結成。
これは2014年まで続いた。

そんで、2010年に「僕のレテパシーズ」結成。

ざっくり書くとこんな感じでした。
(古宮MAPやコークスや初期レテパの事は話せば長いのでまた今度書きますね。)

そんな日々の中、誰から連絡が来たのだろう?
誰かは忘れたがムンパ時代の友人から、ムンパ常連だったヨシカワさんが亡くなったという電話。
で、久し振りに札幌に帰りました。

2009年7月12日がお通夜で13日がお葬式。
歌のおかげで俺にしては珍しく日付を覚えています。
(10月1日は「アズミ」。2017年11月20日は「ロックンロールⅡ」家族の誕生日も覚えられないタイプの脳ですが、歌詞に出てくるこれらの日付と、2回目にハイロウズを見た1999年5月31日、の日付だけは覚えている。バームクーヘンのツアー。俺高2。なぜか10代の頃は5/31という日にちに重大な事が起こる事が多く、なんか特別な感じの日でした。今は何とも思わんが。空知の5月の魔法でしょうか?多分そうだ。)

葬式では色んな人と再会し、皆さんに「大人になったねー。」とずいぶん言われたのを覚えている。
あの頃のムンパで20才、葬式では27才か。まあ、幼かったのだろう。
ホンダとも再会し、2日間一緒に過ごした。
葬式は札幌の郊外、新琴似にある小さな町内会館で(まあ、歌の通りだな。)遺影と一緒にヨシカワさんの好きだったRCやラモーンズ、ジョニーサンダース関連のレコードが飾られ、愛用のギター(レスポールジュニア、まあ、全部歌詞のまんまっすね。)も運ばれて来て、参列者の中には「喪服ファック、皮ジャン参列。」みたいなのもチラホラ混じりながら、深夜テレビの前でドラフトワンを飲みながらの急死という事で、家族友人みんな受け入れる余裕は到底無く、とりあえず泣いたり笑ったり怒ったりしてる感じでした。

2日目の葬式の方は、友人の参列者も少なくなり、ムンパの主要メンバーだけがチラホラという感じで、いつもヨシカワさんがムンパにやって来てた深夜の閑散としたあの時間帯のムンパの感じに似てて、懐かしい気がした。

葬儀のあとは酔っ払ったホンダと2時間位かけて、東区まで歩いた。
強い雨は朝から降り続いていたが、傘はささず、履き慣れない葬式靴で靴ズレしたホンダは靴を投げ捨て裸足で歩いていた。
傍から見たら多分二人ともイカれた感じだっただろう、どこかの横断歩道で何度も赤青赤青になっても話に夢中で一向に渡らずに大声で笑っていた俺達に、少年が近付いて来て「さっきから青なのに、なんで渡らないのー?」と言って来て「なんで傘ささないのー?」「なんで靴履いてないのー?」と質問攻めで、「ほんとだね。なんでだろう?」と3人で爆笑したのが素敵な思い出になっている。
どこにも行きたくなかったんだな。あの少年も今頃は17才位だろうから、そんな気持ちも今ならわかるだろう。

目指す東区には山田家(山田相栄宅。古宮夏希(レッド)の実家。)があり、俺はそこに泊っていた。
相栄さんはカッコいい人で俺はとても気が合ったが、尖った酒飲みではあるので、人によっては怖い義父と感じたかもしれない。
その後、2011年に離婚して、レッドは真黒毛ぼっくすの大槻ヒロノリ氏と再婚したが、大槻さんは挨拶時に酔って調子こいて二ールヤングの話をしていたら、相栄に怒鳴られた。という歌がありますね。
※真黒毛ぼっくす/7thアルバム「夢の旅」収録「大浜海岸へ」
(大槻さんと俺は仲が良い。昨日も電話で世間話しした。夜の長電話。なんて昭和なコミニケーション。)

傍から見ると、びしょぬれの喪服の女連れの酔っ払いだったが、相栄もケイコ(義母)も優しく、ホンダ共々泊らしてもらった。
(相栄、ケイコ、と違い、自分の部屋に二人で泊った事を後日知ったレッドはビックリするほど怒り狂い、俺はその時初めてこいつが嫌になった。ちなみに彼女はこの頃も付き合っていた男がいたし、その前にもその後にも常に誰かいた。俺は彼女に恋愛感情は無かったので、彼女に彼氏が出来るとむしろ友人として喜んでいた。ので、ホンダと素敵な時間を過ごしたのを彼女も喜んでくれるかと思ったら、大間違いだった。女心はムズカシイ。)

後日、ホンダから短いメールが来た。
「愛は風景」の2番の歌詞はそのメールの文を引用しています。
ヨシカワさんのおかげで「愛は風景」が出来たが、この歌はヨシカワさんそっちのけの葬式というよりその帰り道の歌なので、その後すぐに、葬式本体?の「7月12日、13日」も出来たので、よかったよかった、と思った記憶がある。

演奏の方は、

「愛は風景」は当時のベースの寺中さんやアディーが、この曲には特に気合いが入っていて、こだわりの録音になっていると思う。(俺はよくわからんが、色々音楽用語が飛び出していた気がする。最後の最後のハモニカ&ギターソロにつながるよう、じょじょに盛り上がるように演奏するのをみんなで意識してた気がする。)

話は変わるが、この歌のコードはDEAの繰り返し(たまにF♯mが出てくるが、F弾けなきゃ無くても良い。)で簡単なので、ギター初心者の入門編にはピッタリだと思う。
俺が初めてギターを弾いたのは中2の頃。
溜まり場だった岡君(あだ名はおっちゃん)の部屋で。
おっちゃんはギターとマンガ書くのが上手く、部屋にはデカいアンプがあって、おっちゃんはBUCK-TICKファンだったので爆音で今井寿になっていた。
エロ真っ盛りの俺達は、みんなで好きなクラスメイトの裸をおっちゃんに描いてもらったが、永井豪崇拝者のおっちゃんのタッチで描かれた劇画ヌードは使い物にならなかった甘酸っぱい思い出がある。
ギターは興味なかったが、おっちゃんに頼まれBUCK-TICKの「悪の華」という曲の「てんてんててんてんてんてーててん」というギターを練習させられたが、つまらなくてそれ以降ギターは以前書いた17才の友部ショックまで触らなかった。

「7月12日、13日」も考えてみたらA、Fm、D、Eで同じようなもんか。
歌詞を英訳するのが夢、と先日書いたが、初心者でもカバーできるようにレテパの楽譜もいつか作りたい。
これは前作4th「ブルースマン」収録で、先日書いたがボーカルは派手に泣いてしまっている。
演奏後メンバーに「ちゃんと歌えたけど、泣いてしまってるので、聞いてみて録り直した方が良いなら、もう一度やろう。」と言ったが、みんな「いや、このままいこう。」との事でそのまま次の曲にいったが、次の「夜明け前」も泣いてしまい、が、みんな「大丈夫。これもこのまま次に進もう。」という事で、ポンポン録っていったのでした。
間奏のコーラスは、ユキコとはじめちゃん。いいでしょ。
前奏のトランペットは俺。
「ホープちゃん」のPVを作ってくれた浜本理紗がトランペットを吹けるというので、演奏を頼んだが、持ち前の真面目さを発揮して、吹くとなったらとことん本気になってしまうので、やっぱ止めときます、と言うので、しかたなく初心者の俺が浜本理紗から借りて練習して吹いた。
ギターの高野京介は「この初心者の吹いてる感じは初心者じゃなきゃ出せないね。いいね。」と褒めるのでまあ良しとした。

PS.これがB-Tの「てんてんててんてんてんてーててん」だ。
随所に出てくるボーカルの「うーあ、はっは。」みたいなのも誰か友人が担当して腹抱えて笑った青春。

PS.大槻先輩そろそろ仕事定年だから、暇しないように良い嫁でも探してやらねば。例の歌詞。

昔のアルバムの解説ばかりしてますが、着々と新アルバム録音に向けて進んでおります。
ブルーハーツの「DUG OUT」「STICK OUT」のように、早い歌、遅い歌、を分けたアルバムを2枚同時に作りたいな、というかねてからの夢を以前ここで書きましたが、編曲するメンバー達からすると、やはりまず1枚録音してから考えよう、という意見も出て、一先ず早い歌?10曲を選び、編曲しています。

1.長野県のお月様
2.音楽
3.ミツバチ
4.たこ公園
5.地下室の外は
6.雪包丁
7.佐藤君と伊藤君
8.そしてトンキーは死んだ
9.東京の空で
10.水平線

今回も、古くは「地下室の外は」「たこ公園」これは10代の頃出来た歌。
一番新しいのは「音楽」。これは今年の歌。
毎回ですが新旧織り交ざっております。

前回スタジオで全曲歌い「地下室の外は」だけ少し編曲がしっくり来ず、他の歌に変えようかなあ、と思ってしまった。
が、いつも入ってるスタジオコヤーマの横の古本倉庫で鈴木翁二さんのトークライブがあり行ってみたら、歌も少し歌っていて(1曲目が「少年」という歌で2曲目が「15才」という歌だった。さすがに「コークスかよ!」って心の中でつっこんだわ。)それを聞いてたら「やっぱり地下室入れたいな。」と思ったので、次のスタジオでしっくりくるアレンジになればいいな。

まあ、引き続きこうご期待。

今日の解説は4枚目のアルバムから「MOON PALACE」でいってみよう。

「MOON PALACE」

あのスーパーは大手だから 潰れる事はないんだろう
でもムーンパレスがなくなって 永遠に買い物に行く事もないんだな
さようなら スーパーとムーンパレス

向いの北光病院の駐車場が駐車場で
思い返すのはやっぱ冬だな 白い息と排気ガスと街の流れ
さようなら 駐車場とムーンパレス

夜が少しでも長引くように 塞いだ窓 でも夜が明けて
朝日の中は恥ずかしいね お別れに振った手はすぐにポケットへ
さようなら 長い夜とムーンパレス

毎晩行ったり 久しぶりも その夜だけ動く時計
止めたり進めたり戻したり 僕の時間は自由自在

でもムーンパレスがなくなった 時計はただ進んでいく
どこにいても いつも 今だって 時計はただカチカチと進んでいく
さようなら 若い僕とムーンパレス

4thアルバム「ブルースマン」収録
(2008年作詞作曲)

MOON PALACE、俺は英語が苦手だ。つーか嫌いだ。
英語圏の国に行った事も無いし、行きたいとも思わない。
(そもそも外国に行った事がないや。でも、全曲英訳してもらいたい、という夢はある。外人にも聞いてもらいたいんです。そして俺のような歌詞のタイプは比喩とか無いし、直訳であまり誤差無く伝わる珍しいタイプでは?と楽観視している。)

そんな僕ですが、MOON PALACE、という英語だけは書けます。
逆に言うと、ギター、とか、ファックユー、とか、ロックンロール、とか、すら書けません。嘘じゃ無くマジで。

小学6年生まではクラスでも勉強出来た方だった。
で、中学1年生の最初の中間テストというのから、本当の意味でのテストが始まる、無い進展(内申点と書こうとしたら、こう変換された。うちの古いパソコンはたまに鋭い。)という高校受験にも関わる審査がついに始まる、と脅されたので、思い込みの激しい少年だった俺は、必死に勉強した。
で、英語以外はほぼ100点だった。英語は30点くらいだった。
完璧主義者だった俺は、その日から勉強を放棄して今に至ります。
とにかく、英語の事を考えると頭が思考停止になる。
あと、そもそも単語のスペルが覚えられないからどうしようもない。
SOCCER、が覚えられなくて(もちろん今調べた。)「そっかかいらー」とスペルを覚える。
GUITAR、も覚えられなくて(もちろん今調べた。「ギター ス」まで入れたら「ギター ストラップ」「ギター ストラト」「ギター スタンド」「ギター ストローク」等々、「ギター スペル」とは出てこない。みんな弾けなくても書けるんですね。)「ぎゅいたあら」と覚えた。
が、こんな覚え方ではテストでは忘れてしまい書けない。
選択式の問題だけ正解したから30点くらいだったのだろう。
なんで、ぎゅいたあら、なのに、ギター、って言うんだよ、アホか、と最近まで暮らしてたが、最近気付いた。外人は本当に、ぎゅいたあら、そっかかいらー、と言うんですね。日本人が訛ってただけだと、最近気付いた。勝手に訛るなよなー。

そんなこんなで、勉強を放棄したが、周りの友人は極度に勉強できない人種が多かったから、中学卒業の時に「古宮一人は市内の公立かー。がんばれよ。スパー。(セブンスター)」みたいな青春の一幕もあった。
地元岩見沢だと、市内の公立高に行くのがベストで、ダメなやつは近隣の、炭鉱が終わったダーティーオールドタウンの定員割れの高校(三笠、美唄、等)に行く。
だから優秀な高校を出たつもりだったが、この前友人がみんなの高校の偏差値を調べて遊んでたら、俺の高校が1番低かった。
岩見沢緑稜高校、偏差値47との事。
そうか、そもそもダーティーオールドタウンだから全てが次元低いんだな。
ちなみに俺の学歴は、
月形小学校~月形中学校(1年だけで転校)~岩見沢東光中学校~岩見沢緑稜高校
です。空知だなあ。

話はそれましたが、MOON PALACE。

これは、札幌市東区北27条東7丁目にあったライブバーの名前です。

1番の歌詞のスーパーは「ハッピー」というスーパーだった気がする。食材を買い出しに行ってた。
2番の北光病院は、北光記念病院という大きな病院で、ムンパ(MOON PALACE)の向いに病院の駐車場があり、そこを勝手にみんな使ってた。
ムンパは郊外にあり、お客は車が多かった。
2002年に飲酒運転の罰則が厳しくなり、ドライバーの意識もみるみる変わり、今ではもちろん俺だって飲酒運転しようなんて思いませんが、当時は少なくとも北海道ではほとんどの人が飲酒運転、少なくとも今の酒気帯び、くらいはやっていたんじゃないかな。
なので、車でしか行けないような郊外にも飲み屋はあったし、車客相手にやっていけていたが、飲酒運転がちゃんと悪になってからは、郊外の飲み屋は終わっていった。

まあ、ムンパはそういう理由で終わったのではないんだろうけど。
この歌は2002年頃のお話ですね。

以前「プレスカブのスピードで」の解説で書きました、失恋?の後、俺は落ち込んでいた。
テーマ曲はシオンのアルバム「ストレンジ・バット・トゥルー」の「Machiko」や「Once Only Love」で傷心だった。
(今思えばここから割とやけっぱちな恋愛遍歴になっていった気がする。次はムンパの店主ホンダに失恋?(違うか?まあいいや。)して、傷心の中、出会った人と会って2ヶ月で結婚した。当時なぜかとても結婚願望があり、イケイケだった。入籍時、就職どころかバイトすらしてなかったが。)

そんな俺を見かねた永井君(「プレスカブのスピードで」編参照、ヤンキーとの抗争に参加。)が、飲みに行こうと連れてってくれたのがMOON PALACEだった。
161倉庫はパンクやハードコアの人か、近所の北海道大学の学生バンド(なんかマリファナ臭いイメージがありムカつくやつが多かった。たまに良いやつもいた。)が多くて、ムンパの爽やかロック(店主のホンダのメアドがsawayaka-rock@ezweb~とかだった。)の感じは新鮮だった。
お客も曲者だが善良な人が多く、20才の俺は可愛がられた。
ムンパのお客の好きな音楽はあまり好きにはなれなかったが、店にあったキセルの「近未来」というアルバムを客のいない深夜に超超超爆音でかけるといい気分だった。
そのあと車で小さい音でかけてもいい気分だった。
雪の街のオレンジの街灯によく似合っていた。

店主のホンダは10才位?年上の美人だがそれを全力で隠しに行くタイプで、おもしろい奴だった。
とても気が合い、すぐにサイコーの友人になった。
俺はお店を手伝うようになり、半年間位だったが素敵な思い出になった。
今、たまに友人に料理を作る事があるが、もしそれを美味しいな、と思う人は、ムンパで習ったのでムンパに感謝して下さいね。

サイコーな友人で終わればいいのに、だんだん惚れてしまって(ちょっと違う気もするが、まあいいや。)失恋?気分の時にムンパに来た女とデキてしまい、2ヶ月後に結婚してしまった。
その後、その女とは以前書いたアシカラズを組み、1年で解散し、一緒に上京し、空知レコーズ、というチームを組み、古宮夏希&コークスが燃えている!というバンドを組み、その後離婚し、色々あって彼女は俺の視界から出禁という事になっており、今日に至る。

この前、上記のヌルマユ永井君が俺の色々な悪い噂?を聞いて心配したのか、何年か振りに会いに来てくれて色々話したが、「そーいえば、レッド(古宮夏希のあだ名)とは会ってないの?」と聞くから「あいつは俺の視界から出禁だよ。調子こいたから。」って言ったら出禁が気に入ったみたいで爆笑してた。
噂とは違い、俺が元気に張り切ってるのを見て、永井君は満足げに帰って行った。

ムンパが閉店したのがいつなのか知らない。俺が東京に来てから誰かに聞いたんだと思う。
ホンダとはその後は一度しか会っていないが、ずっとサイコーの友人だった。
もう何年も前から音信不通だけど、今でもそう思っている。
(一度会ったのは2009年の7月12日と13日。客だったヨシカワさんの葬式の時だ。「7月12日、13日」「愛は風景」がその時の歌だ。)

PS.結局まだ読んでないけど。これがモデルだろう。

PS.チラシがこれだもん。

PS.この歌のコードはF Am Dm Dm Am Fの繰り返し。
出来た2008年当時はギターの左手がずっと1フレットから動かないのが斬新な発明だ!と思ったが、誰にも褒められなかった。
「ブルースマン」収録。みんなほんと良い演奏。
このアルバムは曲順でポンポン録音していった。
聞いた人は知ってるだろうが、3曲目、4曲目で歌いながら派手に泣いてしまっている。でも録り直すのも違うと思い、そのまま進んだ。
5曲目のMOON PALACEはみんなの演奏のおかげで、前奏でちゃんと、しんとした気分になった。
6曲目アズミでは161倉庫が出てくる。1~4曲目まで感情が洪水しているが、ムンパと161のおかげで、5~6曲目の素敵な静かな時間帯が出来た。(と思ってたが、今聞いたら、まあ静かでは無いか。シャンとした、という感じかな?)

カチカチーと~の前の盛り上がりから、また戻るあの感じ、すげえ良い。このアルバムのハイライトだ。(それともアズミの間奏がハイライトかな?それかサマーの間奏か?意見の分かれる所です。)

PS.カスタネッツというバンドに「ムーンパレス」という歌があるみたいですね。
ホンダの車のカーステで聞いた気がするが、どんな歌か忘れた。

PS.コアなレテパファンなら知ってるかな?
谷口正造作の「君しかいない」の最後のラジカセにムーンパレスの文字が。(スペル間違ってるけど。)

最近は曲紹介を書いてますが、文が長い、とよく言われる。
話が長い、とはよく言われるが、文まで長いのか。
でも、歌は短い方だと思う。

と言うわけで、たまには箸休めに写真多めの歌とは関係の無いやつを。


ガソリン漏れてたり、エンジンイカれてたり、2年も雨ざらしの放置で不機嫌だったスーパーカブもついに復活を遂げたので、さっそくツーリング。


甲州街道をひたすらに。
今までの人生で1番聞いたアルバム「夏のぬけがら」に出てくる「日野橋」を渡ろうとするも、この前の台風で壊れたらしく通行止めだった。
♪日野橋をわたる時に 君を揺り起こしてあげる
多摩ニュータウンがみえる 僕の友達が住んでた


田舎に行くと、日没を意識する。それだけでも良い事だ。いそげいそげ。


ああ、沈む。近くて高い山に沈む透明な日没は久し振りっす。


ひたすら甲州街道の終わりあたりのハルピンラーメン。
諏訪湖近辺ではこれを食べないとツーリング失格らしい。
とてもおいしい。(寒さでハードル2ミリ位になってたから、体温より温度高い物はなんでもおいしかっただろうが。)


夜になった。夜の諏訪湖。


着いた着いた。松本のmarsmoo(マーズモー)。


猫がいた。名前はあっけ。
どーしても覚えられないから北海道の厚岸(あっけし)という地名と連動させて何とか覚えた。がんばれ前頭葉。


近所の温泉に連れてってもらい「何食べたい?」とじゅん君が言うので「地元の野菜!」という事で地元野菜を買ってもらう。
何を食べてるでしょうか?


正解は野沢菜。
この手の生野菜でダントツに美味かった。地元の人も生では食べないらしい。
騙されたと思って食べてみて。


寝床はマーズモーの屋根裏。


おやすみなさい。


おはようございます。
マーズモー外観。


大人気のじゅんの車。
が、やはりカブに乗りたいので、今日もカブ三昧。


排ガス規制で途中までしかカブ乗れないらしいが、昨日勧められたから上高地を目指す。


俺は昔からこの看板が異常に怖い。
宇宙のはじまり(おわり)はきっとこんなだろう。
畏れのあまりいっそ腕にこの絵を彫ろうと思った事さえある。


さすがにきれい。


この苔触ってたらなんか知ってる感触だな、と思ったら自分の髭と同じだった。


カブの鍵につけるキーホルダーを探していたので、良いのが見つかって良かった。
時の止まった土産物屋では、俺が少年の頃から売れ残っていたであろう上高地グッズがたくさん。
おばさんに「同年代だから懐かしいなー。安くならないかなー。」と値切り、半値以下で色々買う。


今夜もマーズモー。
もう明日帰っちゃうのー?と寂しそうなあっけちゃん。


それでは帰ります。
元気でがんばろー。


地図を見てみるとマーズモーの裏はオススメの道らしい。
ので、帰りは違う道で帰る事にした。


オススメの道はさすがだった。
と言うわけで、行きは20号をひたすらに。
帰りはビーナスライン~142~254~17です。(こういうのを書くとツーリングの人っぽいでしょ。)

なんにせよスーパーカブお疲れさまでした。
これからは大切にします。


帰ったら、隠していた鍵を猫が咥えて持って行ったらしく、入れなかった。
コンビニで段ボールを貰い、鍵開けグッズを作り、2時間位試行錯誤の末、ただいま。


じゅん君ありがとー。
またねー。

「雨の日々」

思い出をつくろう そしていつも思い出そう
僕らは今日が苦手で いつも昨日を話してる

今日を捨ててしまおう すぐに思い出せるように
昨日を語り、今日を捨て、そして明日をチラ見する

雨の日々が続いてるように 傘が増えてしまうように
増えすぎだね、なんて言っていた 傘が気付けば無いように

別に悲しくなく とても楽しくやってるよ
何だか少し遅いだけ 今が今も思い出のよう

だから今日を捨ててしまおう いつも思い出せるように
昨日に出会い、今日思い、そして明日をチラ見する

雨の日々が続いてるように 傘が増えてしまうように
増えすぎだね、なんて言っていた 傘が気付けば無いように

3rdアルバム「永遠に、たまに」収録
(2009年作詞作曲)

アルバム全曲解説。
全曲っつって始めましたが、1週間に1曲書いたとして、40曲書くのに10ヶ月。
それだとその間に新しいアルバムも出来てしまい、その歌も解説してたら1年経っても終わらない事になる。
時系列で曲を並べて書いた方がわかりやすいかな?と最近少し思ったが、そこまで考え出すと時間がかかり過ぎるから、やはり適当に思いつくまま書く事にする。
全部終わったら、わかりやすく年代順に並べますね。多分。

1st、2nd、4th、ときたので今日は3rd「永遠に、たまに」から「雨の日々」の解説です。
以前どこかで話した気もするが、これはまあ、傘の歌。
ライブやスタジオなんかに行く人は特にそうかもしれませんが、出かける時に雨が降っていなかったら、荷物も多いし面倒だから多少あやしくても傘を持たずに出かけます。
で、帰る時にはザンザン降り。
でもライブハウスやスタジオには忘れ物の傘が腐るほどあるので、貰って帰ります。
このパターンが続くと家は大量の傘で溢れかえる。

そして、傘さして出かけたが、帰りは止んでて傘忘れて帰る。
この反対パターンが続くと、どんどん傘は減っていきます。

歌が出来たのは2009年頃、稲田堤ユアサハイム時代の歌です。
出かけようとしたら雨が降って来たが、傘が1本も無かった。のでしょう。

2004年(22才)に札幌から東京(稲田堤は川崎だが)に引っ越して来て、最初の3年位は特にひどく落ち込んだ。
ホームシックとは少し違うかもしれないが、とにかく季節感の違いに参ってしまった。
俺は父が空知出身(三笠、栗沢)で母が東京もんのハーフなので、母の実家の祖父母の家にはよく遊びに行っていたし、所謂「田舎のコンプレックス」や「都会への憧れ」みたいなのは全く無く、どちらの良い面も悪い面もちゃんと感じてバッチリ育ったハーフ&ハーフだと思う。
が、住んでみるとこんなにもダメなものか、あらためて自分の体に染みついている北国の季節の大きさに気付かされた。
夜空も青空も夕焼けも朝焼けも、どんな空を見ても美しいと思えなかった。俺の知ってる空とは全然違った。
文化が、とか、風習が、とか、信仰が、とかそういう事では無く「北」の匂いを嗅ぎたいがために、萱野茂さん、藤本英夫さん、藤村久和さん等、アイヌ関連の本をひたすらに読んでは北国の季節を思っていた。
(同じ季節の中で暮らしていたのだから、当然の事だが、読むと心に知っている懐かしい風が吹いた。)
(昨日NHKにとても美しい顔をした人が出てて、誰かと思ったら藤村久和さんだった。俺は毎日テレビを見てるが、こんな美しい顔の人は滅多にテレビに映らない。美しい人を見たい人は10/31の0時から再放送みたいですよ。「アイヌらしく 人間らしく~北海道150年 家族の肖像~」)

その後、内地の季節感にもだんだんと慣れ、2007年~2009年くらいは、安定期というかのんびりと暮していて、歌もたくさん出来た。
この頃は調布の深大寺にある鬼太郎茶屋という所でアルバイトをしていて(ほんとにお世話になりました。)深大寺ものんびりしているし、水木さんものんびりしているし(何度かお見かけしたが眼光は鋭い。)レテパも始まる前だし(レテパは2010年~)人生で一番のんびりとしてたんじゃないかな?(当時の俺が聞いたら「そんな事ねえ!」と、殴りかかってくるかもしれないが。今はそう思う。ごめん。)
今のレテパのレパートリーだと「海へ行こうよ」「プレスカブのスピードで」「君とスピッツ」「夜明け前」「バスが来るまで」「ユーレイ」「MOON PALACE」「アズミ」「再会」「雨の日々」他にもレテパでやっていない歌もたくさん出来た。
不安定?だった2004年~2007年だと「北」「夕焼けより」「君しかいない」がレテパレパートリー。

2004年(22才)~2009年(27才)はスポーツ選手なら全盛期かもしれないが、俺の場合は完全なる準備期間でした。
今度のアルバムにもこの期間の歌が何曲も入るだろう。お楽しみに。

PS.毎日テレビを見てる、と書いたが現代人と比べるとかなり見る方だと思う。若い女なんかと同棲すると大抵驚かれる。
テレビ以外の事は頭の中に遊びが無いというか、そのものの事しか考えられない、ので、半分くらい他の事を考えながら見れるテレビ鑑賞が、ボーっとするにはちょうどよい。前頭葉も委縮してるみたいだし。(酒の時に脳ミソ撮ったら骨との間に隙間が出来てた。)
今朝もテレビ見てたら、奥田民生が、
「音楽はタダで聞く時代だから、確実にCDはこの世から無くなるでしょう。」と言うので以下のような妄想してた。
「ああ、音楽やってなくてよかった。」
「じゃあ、何をやってるんですか?」
「レテパシーの大量放出。」
「レテパシーって何ですか?」
「日本語だと「愛」に近いけど。ちょっと違うな。」
「「愛」とは何ですか?」
「僕のレテパシーズのファーストの10曲目を聞いて下さい。」

PS.先日、吾妻ひでおさんが亡くなったと聞きました。
「失踪日記」「アル中病棟」がこの世に無ければ、レテパは2枚目あたりで終わっていたでしょう。
とにかく6枚目までがんばります。
「おかげさまで諦めることなく完成出来ました。」と感謝の気持ちを伝えたかったな。

↓委縮した俺の脳ミソ。2017年6月。
医者には「アル中にしてはまだ若いし、がんばって栄養摂れば少しは隙間埋まるかもね。」と言われたがどうでしょう?文読んでて埋まってる感じしますか?スカスカですか?

「札幌ナンバーの最後」

死にたくなる時は左手を胸に置き 
出来るだけ遠くの空を見つめていよう

海まで9kmの青い看板の下で
優しくなりたいね お前の言葉を聞いた

もしも今、キヨシローに愛し合ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう

あいつが死んだ時 キャメルのラクダが泣いた
その歌が遠くの戦場で雨になった

生まれ変わる時はテレビなんかないとこで
戦争が起きても気付かずに笑っていよう

もしも今、キヨシローに夢を持ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう

夜の街 雪が降り 札幌ナンバー ペシャンコ
あーキレイだなあ

もしも今、キヨシローに愛し合ってるかと聞かれても
僕にはただヘラヘラと笑うしか出来ないだろう

夜の街 雪が降り 札幌ナンバー ペシャンコ
あーキレイだなあ

2ndアルバム「愛してるよ」収録
(2002年作詞作曲)

前回の「プレスカブのスピードで」の解説で、色々なアルバイトをしていた事を書きましたが、この歌は警備員をやっていた頃、2002年に出来た歌だと思います。
警備のバイトはどの現場に行っても、大体ムカつく先輩がみたいのがいたから、いつもなら初日で辞めるパターンだったのですが、世話になったエルビス系ロカビリー歌手(名前は確かトマソン清水)の人が紹介してくれたバイトだったので、その人の顔に泥を塗るようなマネは出来ず、仕方なく契約の3ヶ月間働きました。
3か月の間に、10か所以上の現場に行きました。

厚田の山奥の現場では、近所の漁師の人が大量のホタテ(数にしたら100個以上)をくれたり、地元岩見沢(札幌から車で1時間位です。)の国道12号線沿いの現場は母校の生徒の通学路なので、卒業からまだ2年しか経っていないのに、俺はもう優しい気分になっていて、学生を眺めながら、あの頃の事を懐かしく思い出したりしてました。(あんなに殺伐荒涼としてたのにね。)

そんな中でも思い出深い現場が、札幌市南区(「芸術の森」あたり)の住宅街の現場だ。
この現場は深夜の時間帯で、ほとんど車も通らないような道を片側交互通行(カタコー)にする現場。
よく札幌で熊が出た、というニュースをやっていますが、これは大体この南区のあたりですね。まあ山の中に住宅街がある感じです。

真夜中、シーンとしていて、現場も一人でやっていたから、邪魔するものが何も無く、何曲か出来た。
「ミツバチ」「SFマンボ」「札幌ナンバーの最後」他にも多分何曲か。
※「SFマンボ」はアルバム収録時「精神障害者は天使 ちほう老人は神様」というタイトルに改題されてますが、やはり最初の「SFマンボ」の方がしっくりくるので、増版の際は戻す予定です。この経緯はSFの解説の時に詳しく書きます。

余談だが、この現場の道を通る数少ない車の中に、アディー(元レテパドラマー鈴木亜沙美)の母親がいたらしく、俺はまだアディーとは知り合いでは無かったが、ヘルメットから溢れ出る尋常じゃ無い毛量がこの住宅街にインパクトを与えていたらしく「凄い頭の警備員がいるよ!」と町内の噂になっていたらしい。
後日、知り合いになったアディー母が「ああ!あの時の!」と言っていた。

もし、俺の歌を前期やら中期やら時期を分ける評論家がいたならば、最初の歌「僕の頭が火事になったら」~「夕立が降ってる」あるいは「地下室の外は」で一区切り。(これは「夕立派」「地下室派」意見の分かれるところだろう。評論家泣かせだ。)
そして「札幌ナンバーの最後」で第二部スタート。これは皆様満場一致だろう。

そして本人にも明確に変わった意識がある。
アルトサックスを投げ出して、歌い出してからずっと、ガットギター(そう言えば2000年頃ガットと複音ハーモニカでやってたら、いつも珍しがられた。今は珍しくないけど。いつも時代を先取りし過ぎる傾向にある。「食べるラー油」も世間のブームの5年前にはブーム去ってたし。)でソロで歌ってました。
ジャズの影響か、歌いながら感情で速度を速めたり遅めたりとか、無音と有音を同等に扱うとか、それはソロでしか出来ないし、自分がバンドを組んだり合奏したり、なんて一生無いと思ってた。
普段はソロのくせに、CDだとバンドになっていたり、のCDも嫌いだった。
(今でもそうだが「普段通り」じゃ無い事が極度に苦手だ。)
普段をなめんな、という気持ち。クレイジーで素敵な普段を目指そーね。

で、変化は2002年の春、北12条の環状線沿いのツタヤにて起きた。
ROSSOの「BIRD」を試聴したのです。
1曲目を聞いて「お!カッコいいー!」2曲目「シャロン」で「俺もこういうバンドを組もう。」というわけです。(先日の「アズミ」の学祭のステージで「ミッシェル」とありますが、これまた悪い意味で早熟だった俺は小馬鹿にして聞く耳を持たなかった。ので、正式?純粋?に未知の新人バンドとして聞いた。)
16才のハイロウズ「千年メダル」の衝撃も「バンド組もう」とは全く思わなかった。バンド組もうなんて、人生で今回初めて。
CDはとても素晴らしかったし、歌詞カードの最後のページの照ちゃんの笑顔がサイコーにイカしてた。
ボーカルのチバ(レテパ初期に西荻窪のスタジオUENで練習してると、他の部屋で歌うチバの歌声がよく混線して俺の部屋のアンプから聞こえてきてた。彼らは2階の大きな部屋、俺らは宇宙船みたいな白い照明の小さな部屋。セブンティーンのPVに出てくる。あのPV雪じゃない部分は大体西荻。)はパンクな笑顔でキメてたが、照ちゃんは二カッ!と笑ってて、その笑顔を見てたら、バンド組むしかない、と思った。

それで、その頃から歌が出来る時は、頭の中でバンドサウンドで出来るようになってしまった。(2004年~2010年はまたソロの頭に戻る。)

周りにいた人間の中からメンバーを捜し「アシカラズ」というバンドを組んだ。
https://tower.jp/item/1079219
↑アルバムも作った。レテパでやってる歌だと「空知」「札幌ナンバーの最後」「SFマンボ」がアルバムに入ってる。
この辺りの事は長くなるから、ちょっとだけ書くと、

活動自体は1年位(2002年~2003年頃)だったし、ライブもCDも力んでばかりいて、まともな活動は出来なかった。と思う。
アルバム録音時はひどい風邪で鼻声で、しかも前日161倉庫でテキサスパコというバンドのライブで踊って手を骨折してた。
それでも、噂を聞いた(どこからだ?マジで。)東京のレコード会社の人が「原石だ!」っつって札幌まで会いに来たりした。
だがやはり原石過ぎたのか(原石っつーか調査発掘前の鉱山みたいなレベルだった。まあ、信じて掘れば大金稼げただろうがね。)業界人は去って行き、その後その部署からはフジファブリックというバンドがデビューしてた。
すげえ探したら当時の試聴サイトとかあるかもだが、恥ずかしいから探さないでね。

札幌ナンバーの最後の歌詞に出てくる
「海まで9キロの青い看板」は161倉庫の前の旧石狩街道に「石狩 9Km」という青看板があって、それの事だが、後で考えてみたら、これは石狩市まで9キロなのであって、海まででは無い。
札幌市民だった2001年~2004年までは海と言えば石狩か小樽だった。(カブで一人でよく釣りに行った。)

「キャメルのラクダ~」周りにキャメルの愛煙家達が多かった。

「もしも今、キヨシローに」忌野清志郎、昔、何かのインタビューでキヨシが「愛しあってるかい?ってこっちは本気で言ってるのに、あいつらヘラヘラ笑ってるんだよ。」って言ってたのが忘れられない。
もし不良少年に「ひろしさん、俺キヨシローって聞いた事無いんすけど、何から聞けば良いですか?」って聞かれたら、「ライブ帝国 RCサクセション70’s」のDVDを薦めます。

「その歌が遠くの戦場で」当時テレビではアフガニスタンの戦争の映像が毎日流れてた。
(前年の9.11の時は部屋にテレビもネットも無かったから、ラジオで聞いてた。)

この歌は2ndアルバム「愛してるよ」に収録されています。
廃盤になっている「アシカラズかっこいい」「LIVE AT MOTION」「ぴりぴりのファースト」全てに収録されていて、過去に一度アレンジした歌を再アレンジするのは難航する事もあるが「愛してるよ」では素晴らしいアレンジをメンバーが考えてくれた。
この辺りからアレンジの際にメンバーに最初からあれこれイメージを伝えるのは止めて、まずはメンバーの感じを聞いてみる、というやり方に変わって来た。
ハッキリ書けば、メンバーを信頼するようになった。

ギターのはなえもんはこういう演奏が得意分野なのか、いつもは上手く弾けずに大変そうだったが、水を得た魚のように、得意気に弾きたおしてた。
逆にアディーはこの手のは苦手だったらしく、最初苦戦していたが、数日経つと何かの訓練?修行?をしてきたらしく、自分の物にしていた。(イントロのスネアをタララララララー!ってやるやつね。)

このアルバムは吉祥寺にあるGOKというスタジオで馬場友美が録音した。
GOKはアナログテープ?(俺はよくわからん。)での録音で、大きなオープンリール?がクルクルカシャカシャ鳴っていたのを覚えている。
アナログ録音でみんな嬉しそうだった。
レテパは貧乏なのに、録音時には金に糸目をつけない事で有名だが、多分4枚中1番金かかったアルバム。

それでも馬場ちゃんの愛の力により、かなりありがたい金額なんです。
そろそろ出世払いしなきゃなあ。

↓俺のハートをわしづかみにした照ちゃんのニカッ。

↓PVはベース飯田裕の知り合いの、はまいばひろやさんが撮影。
場所は千葉の方だったはず。多分。
なかなか過酷な撮影で、1日の予定が日が暮れてしまい、急遽近くに宿泊し、日の出と共に残りのシーンを撮影した。
(宿泊所には卓球台があり、みんな死ぬほど疲れてたのに、飯田とユキコは遊具を見ると遊ばずにはいられない根っからの遊び人で、寝ないでずっと戦っていた。エンジョイ気質もここまで来るとさすがに凄味があるな、と少し尊敬した。)
俺は言われるがままに、道路に寝転んだり喫煙したりした。
最後のシーンはずっと激しい尿意と戦っていたが、なかなかカットにならず、小便できず、監督の「はい!自由に動いてー!」の鶴の一声で自由に動きました。

昨日はスタジオでした。もちろんコヤーマ。
2時間と短い時間でしたので「調布飛行場」「東京の空で」の2曲だけやりました。
「東京の空で」はソロのライブでも歌った事が無く、今回思い出し部屋で何度か歌ってみたが、歌ってると悲しい気分になるので、やっぱりアルバムに入れるのやめようかな、と思いかけていましたが、昨日スタジオで本気で歌ってみたら、悲しくならなかった。
みんなも、絶対に入れた方が良い、と言ってくれたし、歌っててちゃんと喜怒哀楽関係無い感じになれたので、めでたく候補曲入り。

「調布飛行場」は昔、調布近辺に住んでた時によく飛行場に隣接している大きな公園でぼーっとしてたので、その時出来た歌。
ユキコは調布やらの多摩地域に思い入れが強いらしく、この歌を聞いてると泣きそうになる、と言っていた。

アルバム録音に向けて順調です。

では、前回の「アズミ」に続きアルバム全曲解説第二弾です。

※一つ訂正。
前回の解説で最後に
「恋人は何十人~」あたりのベースが飯田裕曰く本人のベストプレイらしい。
と、書きましたが、飯田裕から訂正が入りましたので訂正。
正しくは、
「恋人は何十人~」あたりのベースが高野京介曰く飯田裕のベストプレイらしい。
とのこと。
言われてみたらそうだった。記憶違い。失礼しました。

では、全曲解説「プレスカブのスピードで」編

 

「プレスカブのスピードで」

プレスカブのスピードで 旅に出るの
プレスカブのスピードで 新しい朝へと

時速40kmの風になるの
時速40kmの歌にのせて

プレスカブのスピードで お前らの事など
プレスカブのスピードで 忘れてしまえるの

プレスカブのスピードで 旅に出たの
プレスカブのスピードで 夜風と並走

時速80kmじゃ 風を切り裂くだけ
時速40kmなら 風になるの

プレスカブのスピードで お前らの事など
プレスカブのスピードで 忘れてしまえるの

忘れてしまうの

 

2015年に発売された1st「僕を殺せるのは僕だけさ」収録。
歌が出来たのは2008年です。

前回解説で書きましたが、高校卒業後は161倉庫付近のアパートに住み、色んなバイト(コンビニ、警備員、スープカレー屋等々)を転々としながら、161倉庫を中心にソロで歌いながら暮らしていました。
そんなある日、高校時代の恋人からいきなり電話がかかってきて(携帯は嫌いだったが、無いとバイト雇ってもらえないのでプリペイド携帯を買った。彼女は俺の実家に電話して母から俺の番号を聞いたらしい。やはり全て母のせいだ。)会った。

一つ先輩だった彼女とは、彼女の卒業以来会っていなく、しかもその頃俺は前回書いたようにアルトの音に取り憑かれていて、少しイカれポンチだった。
ので、彼女の父親が自殺してしまったり、色々とあったのに、誰とも話す気分になれなかった俺は、彼女の事を避けて、そのまま彼女は卒業してしまった。

久し振りで懐かしかったし、その頃は彼女と楽しく話していた高校1年生の頃のような気さくさ(2年から気さくじゃ無くなった、と思う。)が戻ってきていたので、楽しく1週間位過ごした。
が、短大生になっていた彼女にはヤンキーの高校生の恋人がいたらしく、そのヤンキーに俺は呼び出された。(呼び出し場所は、新札幌あたりの郊外の使われていない駐車場。)
向おうとしたら、アパートの1階にあった喫茶店(北17条西3丁目ウエストウッド)の人達が「危ないから行かない方が良い。」と助言してくれたが、俺はその頃遅れてきたブランキージェットシティブーム(高校の頃友達は好きだったみたいだが、悪い意味で早熟過ぎた俺は当時バカにしてた。が、その頃、偶然見た中村達也の目つきと当時発売された「ワイルドウインター」という本が素敵で、大好きになった。)で、イケイケだったので、行くことにした。
止めても無駄だと判断した喫茶店の常連達は「それなら、永井(ヌルマユというバンドの永井君)に付いていって貰えば良い。」と言い出し、永井君も張り切ってやって来て、二人で人気のない深夜の駐車場に向った。

そこからは、まあ、あんま覚えてないし割愛する。(案の定ヤンキーは仲間を10人以上集めてやがった。)

結局彼女とはそれ以降会っていない。
が、色々ショックだった俺はバイトも辞めてしまい、落ち込んで自棄になった。
貯金が10万円位あったので、近所の雑居ビルのテナントが敷金無しで家賃3万円で借りれるという噂を聞き、スナックでもやるか、と思いビルのオーナーに会いに行った。
が、俺が若過ぎて不安だったのか断られ、同行してくれた紹介者に連れられて「輪茶館」という喫茶店に入った。
マスターはバイク乗りの間では有名な人らしく、俺にバイクの事を色々話してくれた。
で、「お前、時速40キロの風って知ってるか?」という名台詞がここで飛び出す。
長くなるから簡単に書くと、
マスターは当時50歳前後か?マイク真木を不良にした感じの見た目。
若い頃から暴走行為やらなんやら数々のバイクで数々の伝説を作る。
が、40歳を超えたあたりから、暴走行為では感じられない風がある事に気付く。
その風は、北海道の大自然の中、カブに乗りウォークマンで好きな歌を聞きながら「時速40キロ」で走る、と感じられるらしい。
他のバイクじゃダメで、30キロでも50キロでもダメで40キロ。
音楽と、景色とが、40キロで脳にダイレクトに溶けていく感じ。それが時速40キロの風。

「お前、スナックやるのにいくら持って来たんだ?」と言うので「10万円です。」
店の奥からカブを出して来て「このカブ6万円で売ってやるから、残りの4万で旅に出て、風になって来いよ。」「はい。行ってきます。」

というわけで、前回「アズミ」の放浪以来の放浪。
めでたく40キロの風を感じられたのでした。

それが多分19才あたりの話で、その後23才の頃東京(正確には川崎市多摩区稲田堤だ。)に引っ越した時にカブを運んで来る金が無く、札幌に見捨てて来たが、当時から友人だった元レテパドラムのアディー(鈴木亜沙美)が見かねて札幌からカブに乗って持って来てくれた。

で、2008年、26才の頃、なんか多分悲しい気分にでもなったのか、またカブで放浪してたら「長野県のお月様」「プレスカブのスピードで」「思わずブランキー」と、走りながら3曲も出来たのでした。ラッキー。

その時の歌ですね。

PS.輪茶館、まだあるのかな?と思い今調べてみたら、当時の北区から移転してるが、石狩にあるみたいですね。

PS.上記にスープカレー屋でバイト、とありますが「ピカンティ」の事です。有名店。
カブ買って旅に出て帰って来て一文無しなのでバイトを探してたら、アパート1階ウエストウッドに来てたピカンティオーナーのオサムさんが、君暇ならうちで働きなよ、と言ってくれたのでした。
一番おいしいお店です。2種類のスープの「かいびゃく」の方が特にオススメです。

PS.この歌はちょうど1分なので、時計無い時に1分計らなきゃいけない場面では心の中で歌い、ちょうど1分計ります。
近所の銭湯の温冷浴(水風呂、熱風呂を交互に1分)とかの時に重宝します。

PS.演奏では、最後の最後の「ジャラン!」という感じが、最初なかなか出なくて、メンバーみんなに「ジャン!」じゃなくて「ジャラン!」ね。「ジャラーン!」でも無いよ。と苦心してもらったが、皆さんさすがでアルバムのテイクは見事な「ジャラン!」です。
ギターやピアノはジャラン!にしやすいかも知れないが、当時のベースの寺中さんにまで、ジャラン!を強要してたので、一本の弦でジャランを表現するのは大変そうにしてたのを記憶しています。

PS.そのプレスカブは、稲田堤からの引っ越しの際に、次のアパートに置き場所が無くて売ってしまいました。
が、今から2年位前に、当時お世話になってた方が俺の飲酒を心配して、またカブに乗り出したら少しは飲酒が減るのでは?とスーパーカブを譲ってくれました。
が、90CCのスーパーカブなのでバイク免許取らないと乗れないし、案の定放置してましたが、最近思う所ありまして免許取りに行きました。
普通自動2輪。
無精な俺は最初乗り気ではありませんでしたが、金出してやるから行って来い、とバイクニケツに憧れる嫁に言われ、嫌々通い出したが、途中から楽しくなってきて、教官も驚くほどのスピードで卒業した。(単に生徒の中で一番暇だったのだろう。毎日通い、最速で卒業した。)

↓卒業証書と教習初日に勝手に写されたスナップ写真。
初日だからまだ嫌々で、嫌な事がある時猫背になる癖が出ています。

2017年の冬に「永遠に、たまに」レコ発ワンマン、2018年は秋田ハイコーフェス、のみでライブを全然やっていない。
そしてまたアルバム録音の準備を進めてて、ライブ予定が無い。
ライブしてないから、勝手に活動休止したバンドだと思ってる人もいるみたいですが、そんな事は無くて、ちょっと変わったやり方かもしれないが、本当に大丈夫なので、色々もう少しお待ちを。

こんな状態ですが、通販でアルバムを買ってくれる人がちょこちょこいて嬉しい。
今までレテパのメンバーだった人達は嫌と言うほど知ってるでしょうが、このバンドはアルバム作りに重きを置いている。
いつかバンドが解散しても、俺が死んだあとも、アルバムはずっと売り続けてほしいし、自然とそうなるレベルの物を作らなきゃ、とやっています。

と、いうわけでライブもしてないバンドですが、アルバム聞いてみたいな、と思ってもらいたいので、過去の4枚の収録曲からランダムに解説していこうと思います。

※僕のレテパシーズのアルバムは、俺の歌をみんなでバンドアレンジにしてやってます。
アルバムの為に歌を作ったりしてるわけではないので、収録曲の出来た年代はバラバラです。
気になる方は「歌詞」のページに各歌の出来た年が載ってます。

※「過去の4枚」と上記にありますが「僕を殺せるのは僕だけさ」をファーストアルバム、としています。
その前に出した「ぴりぴりのファースト」は廃盤です。(回収を頼んでもまだ販売をしてくれてる所があるみたいですが。)

前置き長く、すみません。

それでは、

アルバム全曲解説「アズミ」編

「アズミ」

8年前の10月1日 161倉庫であなたをはじめて見た
あれからもうそんなに経ったのか それしか経たないのか 日によって違うけど

あなたは今夜もどこかで歌っている 僕はそれを布団で聞いている
あなたは夕方 バスに揺られている 僕はソファーで揺れを感じている

夕焼けを何百回? 朝焼けは何千回? 見逃している僕は年もとらないで
夕方 バスは夕日を見せるため あなたを揺らしている あなたは年をとる

8年後の11月 横浜へ久しぶりにあなたを見に行ってみたんだ
変わらないのは輝いている目だけ 木のような人だな 旅は風がするよ

恋人は何十人? 流れ星は何百個? 見逃している僕は年もとらないで
海風は木々を揺らしている あなたを揺らしている あなたは年をとる

さよならは何千回? 思い出すの何万回? 見逃している僕は年もとらないで
思い出は夜をぬらしている あなたをぬらしている あなたは年をとる

明日もバスは夕日を見せるため あなたを揺らしている あなたは年をとる

 

なんでこの歌から解説するかと言うと、冒頭の歌詞が「8年前の10月1日~」なので、先程思い立ちました。今日10月1日なので。
4thアルバム「ブルースマン」に収録されています。
「ブルースマン」発売が2019年だったので、何も知らずに聞いた方は8年前を2011年と思ったかもしれません。
この8年前は2000年の事なので、歌が出来たのは2008年という事になります。
「8年後の11月横浜へ~」の横浜は確か、サムズアップだったと思います。
それまでも何回もAZUMIさんのライブには行ってましたが、このライブの時に初めてちゃんと話したのでした。(理由はブルースマン歌詞参照、この歌はアズミさんの事を歌ったわけではないけれど。)
高校生の頃からファンでした。初めて見たのは札幌の161倉庫でした。アズミさんの「VOLUME6 1999-2000」が出た頃です。その時の前座でHMJというバンドが出ててRCの「お墓」を歌ってました。初めてCDを買ったのは苫小牧のレコード屋ウエストで「ブルーズのいいなり ロックのどれい」でした。等々。

苫小牧のレコード屋ウエスト。
今あるのかは知らないが、俺の人生はここで転機を向えた。(一度しか行った事ないが。)

簡単に書くと、阿部薫、エリックドルフィー、チャーリーパーカー、とアルトサックス奏者達に夢中だった北海道岩見沢緑稜高校三年の俺は、彼らのように第一言語をサックスの音色にすべく、全てをアルトサックスの練習に捧げていた。
が、その頃母親がハマっていた友部正人の歌を聞き、サックスはほうり投げ、歌を歌い出した。(この頃の事は長くなるからまた他日。ちなみにライブスタイルはBSフォーク大全集で見た友川かずき、の影響をかなり受けた。座って、譜面台見ながら、酒飲みながら。これも母が録画してた。全て母のせいだ。)
学校は両親と担任と「退学せず卒業する代わりに、出席日数ギリギリ以外は連絡無しで欠席遅刻早退全て自由。」という密約を結んでいた。
が、学校祭は2日とも出席扱いにならないと「行事」の単位が足りなくなるから、やむなく最後まで出席。
体育館のステージでは19、ラルク、ミッシェル、椎名林檎、ハイスタ、ドラゴンアッシュ、と世紀末のJポップが盛り上がっていて、退屈な俺はウォークマン爆音で友部正人、豊田勇造、シオン、たま、ポーグス、シバ、どんと、浅川マキ、なんかを聞いていた。

その帰り道、エリックドルフィー「AT THE FIVE SPOT Vol.1」の一曲目「ファイアーワルツ」で客のザワザワからの「たららたったた、、、、たらったたーたらったたーたらったたーた、パラリパララー」でもう爆発し、大好きな星野道夫さんの影響もあり旅気分が押さえきれなくなっていて、そのままママチャリで旅に出た。(旅っつーか家出か?)

何日か北海道をあてもなくさまよい、苫小牧にフェリー乗り場があったのでそれに乗り、大洗という所に着き、地図(スマホどころか携帯も持って無かった。嫌いで。)を見ると、東京まで一日で行けそうだったから、東京の祖父母の家に向い、そこで2週間位暮らした。
上石神井に住む親戚の某有名劇団の脚本家を訪ねたら、ガットギター(初代ナカデギター)をくれたので、弾いてみたら「僕の頭が火事になったら」という歌が出来たので(初めて出来た歌だ。)遠藤ミチロウ著の「音泉map」という本に載ってた「アピア」「マーキー」「稲生座」などのライブハウスに、出させて下さい、と、緊張を隠そうと飲めない酒で勢いをつけつつ頼みに行ったが、全て門前払いで、失望感満載で東京を後にし、また大洗から苫小牧行のフェリーに乗った。
フェリーに乗りながら考えてたのは、恋の事と卒業後の進路の事だろう。
進路は担任には「アルトサックスを独学で吹いていくので、進学も就職もしない。」と伝えてあったが、気持ちは完全にアルトから歌に変わっていて「僕の頭が火事になったら」を歌ったら、ライブハウスの人達が「すごい!天才だ!」とか言ってくれて「春一番」とかに出させてくれて、フォークの先人達からちやほやされて、後はなるようになる、と考えていたので、東京のライブハウスの店主達の冷ややかな反応が信じられず、絶望した。
フェリーを降りて、さてこれからどうしよう。あ、音泉マップに苫小牧のレコード屋が載ってたな、と思い寄ってみると、全商品試聴できるという素晴らしいお店。
で、AZUMI「ブルーズのいいなり ロックのどれい」に出会う。
セイコーマートで札幌タウン情報(イベント情報誌)を立ち読みすると、2000年10月1日札幌161倉庫「AZUMI」の文字を見つけ、行く。
その時に店主の御曼KCにデモテープを渡し、KCさんはそれをいきなりAZUMIさんの出番の前のBGMにかけやがって、俺は緊張のあまり倒れないように飲酒で気分をごまかし、どうせまた冷たくあしらわれるのかな、と思ってたら、拾ってくれた。
そこから始まりました。
卒業後は161倉庫のそばのアパートに住み、色々あって、今日に至ります。

PS.演奏面では、高野京介はこの録音でのアコースティックギターの演奏が、自身初のアコギ録音らしい。
使用のアコギは「YAMAKI 型番不明」でこれは「MOON PALACE」店主ホンダに貰ったギター。良い音。
「恋人は何十人~」あたりのベースが飯田裕曰く本人のベストプレイらしい。確かに素敵。

昨日はタカユキ家の地下スタジオで4人レテパ。
(はじめちゃん来れない日だったので。)

今までアルバムを作り出す時は、実は心の中では早い段階で収録曲と曲順まで一人で決めてた。
アレンジはみんなで考えるんだけど、やる前に想像して「深海はあんな感じになるだろうから1曲目で、だから2曲目は夜に名前を、だな。」みたいに。
今回も曲順まで考えてたんだけど、前回のスタジオでやった7曲が想像を遥かに超えてバッチリだったので、想像を超えた分、予想してたイメージが超良い意味で壊れ、残りの3曲を何にしようか迷い出してしまった。嬉しい迷いですが。
(変な所で神経質で毎回10曲だから同じ10曲じゃないと気持ち悪い。)

なので、昨日は歌ってみんなに聞かせて「どれ入れたい?」と相談した。
みんなこれも良い、あれも良い、と言ってくれるので、とりあえず全部アレンジしてみてあとで考えよう、という事になった。
でも、このままでは10曲どころか、20曲も超えてしまうだろう。

話しは変わるが(変わらないか)ブルーハーツ「ダグアウト」「スティックアウト」みたいに、早い歌と遅い歌(頭悪そうな言い方ですが)を別々にしたアルバムを同時に作るのが俺の夢だったなあ。
もしかしたら、ついにそのチャンスが来たのだろうか。

昨日は「ヨモギネコのチヨ君」という歌でタカユキ君がリコーダーを吹き出した横で、高野君がヤンキーのように床に座りながらかったるい感じでギターを弾いているのが、どっかの中学の教室の一コマみたいで面白かった。
「猫との午前」という歌では、後奏の高野ギターがあの頃の俺の気分そのままで嬉しかったが悲しくなった。
両方とも札幌から連れてきた猫がいなくなった時の歌だ。

「猫との午前」はまだいなくなってないが、何か別れの予感がして出来た歌。
そんで「ヨモギネコのチヨ君」は実際にいなくなった歌。
札幌から引っ越して最初に住んだ稲田堤ユアサハイムにて。2011年頃の歌です。

「猫との午前」

猫との午前 穏やかな 日射しの中 過ごしてる
二匹のうちの一匹が外に出たいって騒ぎだす

窓を開け出してやる 二階から飛び降りた
残された一匹が不安そうに見送った

心配はしてないよ 毎日の事だから
だけど サヨナラは言わないで 消えてしまうって聞くからさ

サヨナラは言わないで 消えてしまうって聞くからさ

 

「ヨモギネコのチヨ君」

春の日射しの中で死ねる猫は幸せか
春の陽気で酔っぱらい そのままいなくなった

ヨモギネコのチヨ君 ヨモギネコのチヨ君

といった感じの歌が 早く帰って来ないと
シンガーソングライターの僕は どんどん出来ちゃうから

早く帰って来いよ ヨモギネコのチヨ君

札幌で生まれて2年半 川崎は6年間
雪解けの春は忘れたか? もちろん覚えてるよな

ヨモギネコのチヨ君 ヨモギネコのチヨ君

といった感じの歌が 早く帰って来ないと
せっかちフォークシンガーの僕は どんどん出来ちゃうから

早く帰って来いよ ヨモギネコのチヨ君

 

2018年の春頃かな?はじめちゃんに「ヨモギネコのチヨ君の歌詞よいね。ヨモギネコってどんな猫なの?」と聞かれたのを覚えてます。
(当時はアルバム収録曲以外の歌も全部「歌詞」のページに載せてた。)
ヨモギネコは北海道弁みたいですね。こちらではキジトラなのかな?多分。

スタジオの後は、近所のスシローからの温泉。
高野君もタカユキ君も素っ裸で見ると、他の人達よりもカタギじゃない感じが出てました。
タカユキ君はサウナでずいぶんイカれた目つきをしてるなあ、と思ったら、サウナの時計が12分計なので、めんどくさいから時計1周(12分)を1セットにして水風呂~サウナを何回も繰り返してたらしい。
変な目つきだったのは朦朧としてたかららしい。
12分は長いよ。変わってんなあ。

写真はタカユキスタジオにて。
ユキコはスタジオというより温泉に重きを置いていたのか、寝巻のようなラフな格好をしています。

というわけで、一昨日は新メンバー初スタジオでした。
みんな大好き高円寺スタジオコヤーマです。

俺そういえば多分、タカユキ君の演奏を褒めるの忘れてた。
一音目から自然に始まってしまい、スタジオ8時間入ってたのに、存在が自然過ぎて全然絶賛してなかった。
忘れてました、とっても素晴らしかったです。

東京から離れてた萌ちゃんは台風で帰って来れず、遅れて駆けつけてくれたので、最初は4人で「たこ公園」「佐藤君と伊藤君」をやって、その後合流し5人揃って音出した時のあのバッチリな感じ!
2月からの断酒リハビリやらで、全然歌って無かったので俺は9ヶ月振りのスタジオ。
恥ずかしながら、久しぶりの大声で声帯がくすぐったかった。

「佐藤君と伊藤君」は2007年前後の歌かな?
当時文通してたKさんという音楽家の人がいて(歌が出来たらお互い送り、手紙で感想を言い合ってた。俺が手放しで天才だと言えるのは彼だけ。「夜に名前を」に出てくる「僕の友達〜」は彼の事。)「ふるちゃん、佐藤君と伊藤君いいね。浮遊感がたまらないね。」と言ってくれてた。
Kさんに一昨日の演奏を聞いてもらいたい。
「浮遊感ってこういう事でしょう?」
「そうそう、でかした!」
今のレテパ聞いたら絶対褒めてくれるはず。
が、Kさんどこにいるんだかわからん。

「たこ公園」は高校生の頃の歌。(2000年だから俺来年歌手生活20周年だ。)
当時恐らく、たこのすべり台の型でもあって安く大量生産してたんだろう。
メンバーみんなそれぞれ思い出の「たこ公園」があるみたいでした。(ちなみに今のメンバーは、北海道(月形、岩見沢)、盛岡、湘南、東京、東京、出身。)
もう20年も歌っている歌が、まだこんな風に良くなるなんて、びっくりした。嬉しかった。
まさかあそこに間奏を入れるなんて思いもよらなかった。

その後も「長野県のお月様」「ミツバチ」「音楽」「雪包丁」「水平線」と、どんどん演奏しました。

「水平線」では高野君がなんか異常なハイテンションで面白かった。(次の日になっても「水平線よかった、水平線よかった。」とずっと言ってた。大好物なアレンジなのだろう。皆さんも聞けば彼の性癖がわかる。アルバムの最後の曲になる予定。乞うご期待。)

「長野県のお月様」はユキコがお気に入りらしく、演奏しながらニヤニヤしてた。(後で聞き返したが、この歌の萌ちゃんのドラムが、俺の歌をバンド演奏にする時の超お手本なんだろう。歌いながら俺は俺の知らないところまで行ってた。)
ちなみにこの歌と「プレスカブのスピードで」「思わずブランキー」は昔カブで疾走(失踪?)放浪の旅の時に出来た3部作です。
ブランキーはまだ未収録か。

さっき9ヶ月振りに歌ったと言ったが、ちょっとだけ嘘で、断酒1ヶ月位経ち、所謂「離脱」も落ち着き、ボンヤリしてたら「音楽」という歌が出来た。
ので、その時ちょっと小さな声で歌った。

ここ数年は1年に1、2曲くらいのペースで歌が出来ます。
2016年「ラブソング」「深海」
2017年「永遠に、たまに」「ロックンロール2」
2018年「ヘルメットヘアー」
で、
2019年「音楽」

新曲できた、新曲できた、と、よく新曲制作至上主義みたいな人がいますが、作りゃあ良いってもんじゃないよ。
小学校の時読んだネズミのフレデリックの影響か、俺はあの作り方しかできない。
あ、上記のKさんは多作だったけどね。(20曲は入ったアルバムを3ヶ月に1枚のペースで送って来やがった。)

「音楽」が出来てから何ヶ月も隠居してたから、やっぱり少しは悶々と不安で、過去にシラフで歌が出来たのは「17」だけだったので(この時は起きてすぐ酒飲む暇も無く出来てた、確か。)「音楽」が良い歌なのかわからなくなり、実は一昨日怖かったんですよ!メンバーの皆さん!隠してたけど。

で、結果は、アルバム完成でのお楽しみ。
このペースだと、早く出来そうだ。

2000年から歌い出し「00年代は俺の時代だな。」と思ったが全然だった。
2010年からはレテパも始まったし「10年代は俺の時代だろう。」と思ったがやっぱり全然だった。
2020年代に向けて、残ってる録りたい歌はこの素敵なメンバーで全部録っちゃってしまいたい。

そんで、レテパの時代にするんだ。

僕のレテパシーズは前作「ブルースマン」を最後にベースの飯田裕が脱退しまして、新しいベーシストを捜していましたが、決まりましたので報告します。

では、改めて他の4人もおさらいしてみましょう。


ボーカル
古宮大志(ふるみやひろしって読みます。)

※みんなに「メンバー紹介したいから、この夏の思い出の写真を送ってね。こんな感じで。」と俺の写真をお手本に送ったら、みんな同じような写真を送ってくれた。
まとまりがあっていいね。


ギター
高野京介


キーボード
ハダユキコ


ドラム
関口萌(写真右です。一応。)

そして、新メンバー


ベース
タカユキカトー

です。

タカユキ君は2014年頃の1年間くらいかな?(1st「僕を殺せるのは僕だけさ」の前の1年間)レテパのギター担当でした。
「ブルースマン」買った人はCDに書いてるから知ってると思うけど「ブルースマン」ではマスタリング(楽器じゃないよ、CD作る時の作業だよ。)を担当してくれてます。
タカユキ君ちは地下がスタジオになっていて、久し振りに会ってそこで作業したんだけど、さすがに俺やレテパの事をよくわかっていてくれて、何もかも説明不要で、嬉しく頼もしく「ああ、あの1年意味があったな。」と思いました。
そして、今回のベース捜しの時、タカユキ君はベーシストってわけでは無いので、最初は思い浮かばなかったんだけど、考えてるうちに今回のマスタリングの時の事を思い出し、説明不要でわかってくれてるのって最高だよな、と思い、タカユキ君に「ベース弾けるの?」と聞いたら「弾けるよ。」と言うので、「新しいアルバム作りたいんだ。ベースいないんだ。入ってほしい。」と伝えたら「いいよ。」と言ってくれました。

と、いうわけで次作に向けて今月から本格的に動けそうです。
やったね。
また色々報告するね。