4月30日(火) アディー編(ハジメちゃんとアディーについて)

2000年5月
友人の家で新聞広告を見せられる。
そこには「最高傑作を世に放ち解散します」なんて書いてある。
その最高傑作を彼はもう入手していたので「聞く?サイコーだよ。」と勧めてくれたが、気に入らない歌を聞くと極度に疲れるので慎重になり「いや、とりあえず歌詞カードだけ見せて。」と1曲目の歌詞をだけを読んでみた。
そこには「Spark Jet City チェリーソーダとチェリーパイ」なんて書かれていて「チェリーにチェリーは合わないだろ。甘酸っぱ過ぎてお互いの良さを消しちゃうだろ。」とは思ったが、英語まじりの歌詞だったし、どうせビジュアル系の一種だろうと思い、その最高傑作を聞かずに彼の家を後にした。
外に出て1人になった瞬間、CDウォークマンのイヤホンを耳に刺す。
刺した傷穴に遠藤ミチロウの詩の朗読「パティ・スミスの『ラジオ・エチオピア』が聞こえる」を爆音で流し込み止血する。
親の影響だろう。周りよりも早熟だったので、音楽や文学の話は友人達と全く合わなかった生意気盛りの北国の高校3年生。
まさか、チェリーソーダとチェリーパイのビジュアル系バンドのドラマーがミチロウさんのスターリンに在籍していたなんて知りもしない、はやとちりの田舎者。

2001年夏
高校卒業後、札幌市東区にて一人暮らし。
バイトを転々としながらソロで歌ってた。
ある日友人から「タダでライジングサンに入れるよ。」と誘われる。
行ってはみたものの楽しくなくて、音楽の聞こえない場所を探し、会場内をフラフラとする。
すると20〜30人位の小さな人だかりが。
ステージも何もないところに、ドラムセットとキーボードだけがポツリと置いてあった。
そこへ、刺青だらけの男がトコトコと歩いて来た。
ドラムの前まで来る。
歩調や速度を全く変えずにバスドラの上にトンッと乗っかる。
そして「昨日ススキノ歩いとったらよー、おもしろいピアノのおっさん見つけたから何かやってみるわあー。」と言い放つ。
ひらりとそのまま椅子に着地したと同時にドコドコドコー!と叩き出した。

その一連の動きがあまりにも自然体で見事だった。
普通「バスドラに乗っかって客席に何かを言い放つ。しかもゲリラ的なライブ」という状況だと、誰もが力むだろう。良くも悪くも。
が、彼はあまりにも自然な動き。
バスドラに飛び乗る時にも、歩幅や速度が一切変わらない、普段通りの当然の一歩。
客席に口上をぶちまける時も「長年連れ添った老夫婦が交わす呼吸のようないつものおはよう」くらいの当たり前な態度。

こんな人間見た事ないな。何なんだろう、この人。と衝撃を受けていたら、隣の若者が「達也だよ!達也!」と騒いでいる。
俺は「どこぞの達也だろう?」と思いながら演奏を見ていたが、ピアノのおっさんは本当に「昨日ススキノで拾ってきた見ず知らずのオッサン」だったのだろう。
つまらない演奏だったので、彼のドラムにもそこまで感動せず、退散。

でも「一体どこぞの達也だろう?」との思いは心に残る。

2001年秋頃
札幌中心部のピヴォという大型書店で1冊の本が目に止まる。
直感的に開いてみると「どこぞの達也」がそこにいてビックリ。
さすがに運命を感じ、買って家で読んでみる。元気が出てくる。
小さい頃からの違和感が一気に解けていく。
ああ、俺と同じ感覚の人達は存在するんだな。

自分の「暗い部分」において上記の感動を与えてくれる人には何度も出会った。
そしてその人達に救われて生きてきた。
が、自分の「明るい部分」においてこの感覚を持つ事は今までに無かった。
おそらく自分は元来明るい性格なのだろう。
この本を境に、明るい部分が表に出て来て、暗い部分はたまーに現れて大暴れする、という感じになった。
今でもそうだ。

その頃住んでいたアパート(北17条西3丁目コーポ幌北)の裏の中古CD屋ビークラブで「歌詞カード無し、キズ有り、1000円」の「Bang!」を買う。
とても感動した上に、最近の音楽(それまで60年代〜70年代の音楽を中心に生きていた)で感動する事が極度に少なかったので、その部分でもえらく揺さぶられた。
現代、現実、が一気に自分に関係してきた感覚があった。
簡単に書くと、嬉しくて生きる力がどんどん湧いてきた。

ブランキーを聞いて、影響されて、まずやる事は人それぞれだろう。
俺はプレスカブを買い、テントと寝袋と地図だけを持って北海道ツーリングの旅に出た。

※上記の本のタイトルは「ワイルド・ウインター」です。
皆さんもぜひ。

2002年
上記の「現代、現在、が一気に自分に関係してきた感覚」はブランキーショック以降も続いた。
ガールフレンドが持っていた「ナンバーガール」もかっこ良かったし、この年の春に発見した「ROSSO」の1stアルバム「BIRD」を聞くと自分もバンドを組みたくなってきた。
出来る歌も明らかに変化した気がする。
歌が出来る時に頭の中でバンドサウンドが鳴るようになった。
この後、1年間だけバンドを組み、解散するまでの間はバンドっぽい歌がたくさん出来た。
解散後にはまたフォーク少年に戻ったのだが。
ちなみにこの頃の作曲でレテパシーズのアルバムに収録された歌は「SFマンボ」「空知」「札幌ナンバーの最後」「ミツバチ」「そしてトンキーは死んだ」「水平線」「東区が恋しくて」「雪包丁」。

バンドを組むと不思議なもので、同世代の友人がたくさん出来るようになった。

2003年初夏?
自分のバンドのレコーディングを161倉庫と同じビルの1Fにあるスタジオミックスで行った。
前日にロックンロールバンド(懐かしの「テキサスパコ」)を見ながら踊っていたら右手が折れてしいまい、風邪もひいて鼻声で、満身創痍のレコーディングだったが、ブランキーショックのおかげで平気に明るく録音出来た。
録音が終わり、地下の161倉庫に降りてみると、おしゃれな感じの若者のスリーピースバンドが演奏していた。
今時の売れ線な「ナンバーガールやフィッシュマンズあたりの影響下にある」感じのバンドに見えたが、後ろにいたドラマーに目を奪われた。
人間界に野生動物が混ざっちゃってるよ!と思った。
その野生動物は誰かに似ていた。そしてすぐに気付いた。
それは「どこぞの達也」だった。

演奏が終わり、話しかけた。
「すごくカッコいいね!これ俺のバンドの出来立てホヤホヤのアルバムなんです。良かったら聞いてみて下さい!あ、でもこれ入稿用のマスターCDらしいから必ず返してね。」

後日彼女はちゃんとCDを返してくれた。
そして無事に感動してくれたらしい。
俺達は仲良くなった。

2003年秋頃?
俺のバンドのドラムが抜けてしまい、急遽代打で彼女がドラムを叩く事になった。
ライブの前日に161倉庫を借りて練習したのだが、3人とも大興奮だった。(古宮大志、古宮夏希、鈴木亜沙美)
これはすごいバンドだ!運命の3人だ!と全員が同じ気持ちを持ったと思う。
が、おそらくそこで全てを出し尽くしてしまったのだろう。
次の日「MOON PALACE」で行われたライブはまあまあの感じだった。

2005年
2003年頃かな?ナンバーガールがいたメジャーレコード会社に「空知」のデモテープを送ったら東京から業界人が会いにきた。
それで舞い上がった俺は友達全員に「今度メジャーデビューするんだよねー。多分。おそらく。きっと。」と得意気に言いふらしてしまったが、すぐにバンドが解散してしまい、話は頓挫した。
ちなみに解散した原因は「ふるちゃんばっかりちやほやされるのは癪だ。私には私の歌がある。自分のバンドを組むわ。」と言い残し、古宮夏希が勝手に脱退したせいだ。
俺はメジャーデビューする、と言いふらしたくせに頓挫したのもきまりが悪いし、得意のリセット癖で「さようなら札幌。東京に引っ越そう。」とリセットボタンを押してしまった。

夢の東京だ!ワクワク。という感じの上京では無く、ヤケクソに似た逃避の上京だったので、ノープランですぐにホームシックにかかり、ボケーっとしながら悲しく暮らした。
が、多摩川や多摩丘陵をぼんやりと眺めながら出来たたくさんの歌達は、今でもレテパシーズの大切なレパートリーだから、絶対に必要な時間だったんだよなあ、と今では微笑む事が出来る。

2010年
「僕のレテパシーズ」結成。
札幌のアディーに電話してドラマーとして誘う。
が何やかんやと言い訳を言われ、断られむかつく。
ドラムは結局、藤原リョウタが叩く事になった。(現「五月リョウタ」※週刊ラジオレテパシー局長)

上京しないアディーにむかついていたら「旅に出るなら」という嫌味な歌が出来た。
※現在リミックス、リマスター中の6thアルバムの1曲目。
まもなくリリースです。お楽しみに。

2011年
「ケツが痛くてもうダメですわ。」と言い残し、藤原リョウタが脱退。
アディーに電話するも、何やかんやと言い訳を言われ、また断られた。むかつく。
ドラムはにたないけんが叩く事になった。

2013年
にたないけんがちょっとグロい失恋?のショック?でバンドを去る。
アディーに電話するも「今なら行きたい気持ちは山々なんだが、上京する金が無い。から金が貯まるまで待って。」と言う。
むかついたので「じゃあ、俺がアパートから引っ越すから俺のアパートにそのまま住めば良い。それなら敷金も礼金もかからずに飛行機代だけで明日にでも引っ越せるだろう。」と提案し、解決。
なので、アディーは古宮大志として方南町のアパートに住む事になった。

2017年
俺の第一次断酒の影響でレテパがダメになってきた。
3rdアルバム「永遠に、たまに」完成後、はなえもんとアディーが抜けた。

2024年4月
ハジメちゃんから「ここで一度休ませて。必ず戻るので。」と伝えられる。
俺はアディーに電話した。
アディーは「声かけてくれてありがとう。叩くよ。光栄です。」と言った。

PS.写真ははなえもんが描いた2017年頃の4人のレテパシーズ。
この頃はこれをアー写にしてた。
さすが、はなえもん。
あの頃の絶望のカラーがよく表現されています。


これは2016年「愛してるよ」の頃のライブ。
この頃は崩壊寸前の明るさがあったね。


なんの写真だか分からんが、珍しくツーショット。
というわけで、アディーよろしくね。
2003年、俺達が初めて演奏したあの伝説の夜「MOON PALACEのライブの前日の161倉庫での最高の練習」を余裕で超えようぜ。

まだまだ旅は続くのです。