3月25日(木) ありがとう高野君

2017年10月、ギターのはなえもんが突如レテパシーズを抜けました。
2ヶ月後には3rdアルバム「永遠に、たまに」のレコ発ワンマンが控えていました。
その日、はなえもんが来なかったので何も出来ず、スタジオ(中野ベースオントップ)に金だけ払い、サンプラザ前の広場の階段に座った、飯田裕、鈴木亜沙美、俺の3人は(この時期4人体制)途方に暮れていました。
でも厳密には俺はあまり途方には暮れていなかった。
心の中で「うみのてやピンクトカレフだった高野京介は対バンするといつも、ずっとレテパみたいなバンドがやってみたかったんだよね。」と言っていたからやってくれるだろう。
と思っていたので。
いーちゃんとアディーにそれを言うと「やってくれるかなー?忙しいんじゃない?」と半信半疑。
俺は「だってやってみたいって言ってたんだから。やってくれるんじゃない?いーちゃん連絡先知ってるなら今連絡してみてよ。」と自信満々。
で、その場で連絡。すぐに返信。快諾。
ワンマンは無事終わり、そのまま「6枚のアルバムを残したい」という俺の「遺書作り」に付き合ってくれました。

2018年の4thアルバム制作途中に俺の状態は最低最悪になり(アルコール依存症です)エンジニアも途中で降りてしまい、このままじゃ6thどころか4thも完成できないな、と確信し2回目の本格的な治療に入りました。
その時もあの、一見テキトーな人間と勘違いされそうな軽い態度で、何も変わらずに助けてくれました。
本当に優しい男です。(もし彼を知っていて、彼を優しいと思えていない人がいたら、感性イカれてるよ。)

その後、治療の甲斐あり体調も復調し、4th完成。
続いて5th6th制作、そして去年2月の復活ライブ。この前の5thレコ発ワンマン。
全部高野君と一緒にがんばりました。

6thは完成してるけど発売はまだだし、レコ発ライブも5thまでしかやれてないけれど、おかげさまで「遺書作り」は本当の意味で終わり、頭の中は7th以降の未来の事でいっぱいになれたので、新しく動き出すためには、このタイミングかな、と。

あの一番滅茶苦茶だった時期を支えてくれてありがとう。
歌ができる、ライブをする、アルバムを作る、そんな当たり前の事が出来なかったあの時期。
今、普通のバンドに戻れたのは高野君のおかげです。

ありがとう高野君。
高野君もがんばってね。
俺らもがんばります。