※7/30追記
本日配信しました3rd「永遠に、たまに」一度配信停止にします!
理由はこちらにて!
ごめんなさい!
(以下、昨日書いた文章そのまま)
2017年に発売された3rd「永遠に、たまに」が明日配信されます。
(配信されるとここで聞けます)
ここで、お知らせしなくてはいけない事があります。
「永遠に、たまに」全10曲のボーカルを先日全て歌い直しました。
そして、4th「ブルースマン」も同様に歌い直しました。
以下はその理由、説明、です。
アル中の知識が無い方には、色々誤解されてしまうかもしれませんが、どうしても触れなくては説明できないので、色々書いています。
説明無しにアルバムを聞きたい人は、ぜひそうして下さい。
一言で言えば、
「今の自分でボーカルを録り直してみたくなった。で、録って聞き比べたが、今の方を聞いてほしいと思った。」
以上なので。
※ボーカル以外はいじっていません。ミックスもそのままです。
※旧テイクのCDは、そのまま販売します。
今まだ準備中ですが、今後買われる方には、新テイクのCDもお付けします。
好きな方を残して下さい。
もうCDを持っている方で、新テイク盤が欲しい方はご連絡下さい。
すみません。今、5th.6th制作関連でドタバタなので、新テイクCD、準備が出来たらまたお知らせしますね。
以下、読みたい方だけどうぞ。
2nd「愛してるよ」のレコ発ツアー後、キーボードのユキコが脱退し、レテパは4人になりました。
「4人もブルーハーツみたいでいいね。ハイロウズからブルーハーツになったね。」なんて、最初は明るく再スタートしましたが、2016年頃から、俺は寝ている時以外の連続飲酒状態が、残念ながら耐性がついてしまい続いていて、色々と上手くいかなくなり始めて、2017年の6月、三鷹のアルコール病院に連れて行かれました。
病院では、依存度的にも、肝臓の数値的にも、脳のレントゲン的にも、即入院と言われました。
が、入院だと3ヶ月間拘束で、もちろんライブは出来ません。(その時、5本のライブが入っていました。)
ライブのキャンセルだけは絶対にありえないので、通院での治療にしてもらいました。
医者は「通院じゃ絶対にうまくいかない。」と、言いました。
最初は様々な離脱症状に苦しみましたが、周りの協力と、吾妻ひでおさんの「失踪日記」「アル中病棟」を読んでいたおかげもあり「断酒」する事は出来ました。
通院、投薬、自助グループ参加、と断酒3本柱と言われている治療を行い「飲まない」事は続けられたのですが、問題がありました。
ライブが、全くうまくいかなくなりました。
ライブ会場に着いて他のバンドのリハを見ると「こんなバンドを良いと思ってるんなら、主宰者、俺らの事、全く理解してないじゃん。」から始まり、ステージからお客さんの顔を見ても「お前さっき、他のくだらないバンドで拍手してたじゃん。お前なんかに分かるわけないよ。」とライブ中も、そんな事ばかり考えてしまい、歌う気が起こらず。
もちろん、17才の歌い始めた頃からそういう気持ちではいましたし、そういう気持ちを否定する気は全くないんですが、こういう事を思った後、続けてすぐに「もうやめよう。じゃあ、死のう。」と何を見ても思うようになり、ライブ中もずっとそうなってしまいました。
医者に相談もしましたが「断酒の鬱だね。抗鬱剤を出しましょう。思い詰めると良くないから音楽は今は止めたほうが良い。」とそんな感じですし、自助グループに行っても、答えはありませんでした。(いや、違うか。答えはハッキリあって「バンドをやめる」の一択だった。)
そんな中「永遠に、たまに」のレコーディングが行われました。
いつも、大体ファーストテイクでOKなのですが、この時は初日の1テイク目がうまくいかず、次の日にもう1回歌いました。
2日目のその時は、奇跡的に落ち込まずに、昔のように歌えた気がしたのですが、全てに余裕がなく、コンデンサーマイクの本来掴んではいけない部分を掴んで歌ったりしてしまい、ボーカルがとてもこもった特殊な音になってしまいました。
が、その時は多分俺の異様な気迫にメンバーもエンジニアも押され、今のテイクでいこう、と言ってくれて、自分もOKを出しました。
ボーカルがこんなじゃ、メンバーみんなも辛かったと思いますし、実際、はなえもん、アディーはこのアルバムを最後に抜けました。
でも、3人は辛さを音に昇華して、素晴らしい録音をしてくれました。
が、本当にギリギリの素晴らしい音なだけに、ボーカルがこういうこもった音だと、みんなの演奏までが素直に聞こえてこず、ずっと気掛かりな録音になりました。
(ボーカル、今、聞くと、やはり音質だけでは無く、全体的に異様な感じがします。)
が、これもバンドの本当の記録だから、これで良いんだ。
と、当時は判断し、発売しました。
その後、10月に秋田の「ハイコーフェス」という、毎年呼ばれるイベントがあり、ライブを差別するわけではありませんが、4本最悪のライブが続いて、絶対にこのイベントだけは、こんな気持では出られない、と思いました。
なので「以前の状態に戻そう」と決めて、ハイコーまでの2週間、本当に飲みたくありませんでしたが、無理やり酒を飲み続け、以前の状態に戻そうとしました。
耐性はもう抜けているので、最初の一杯で、顔は真っ赤になり、フラフラしました。
もともとは酒に弱く、ビール2本程度で酔っ払うようなものでしたが「耐性」がつくと、「酔っている状態が正常」と脳が判断するので、どんなに飲んでも顔も赤くなりませんし、飲んでいないと手が震え箸も持てません。
酒が強い弱いは関係無く「耐性」がついてしまい連続飲酒が「出来るように」なってしまうかどうかは、基本的には運なんです。
大急ぎで「耐性」を取り戻し以前のようなライブをしよう、と、2週間起きている間はずっと、飲んでは吐き、飲んでは吐き、を繰り返し、大急ぎで「以前の状態」を取り戻そうとしました。
そして何とか間に合い、おかげでハイコーフェスでは、以前のようなライブが出来ました。
で、それからまた、すぐに連続飲酒になり、2018年はさらに酷い状態になっていきました。
その頃は「6枚のアルバムだけは死んでも残す」とだけ思いながら生きていました。
4th「ブルースマン」はボロボロの状態で、もう脳ミソは一切使えておらず、心のみで生きている状態で、録音しました。
「7月12日、13日」「夜明け前」「MOON PALACE」「アズミ」と、その歌を歌うというより、ただただ感情が溢れるだけ、感情を溢れさせるためだけの道具、として歌う事しか出来ず、歌いながらひどく泣いてしまっています。
もちろん歌いながら泣くことは全く悪くありません。
が、その歌により泣いているのではなく、その時もう辛くて死にたくて限界なので、泣いていたんだと思います。
(当時の自分はそれを強く否定するだろう。だから、否定する人はぜひ否定して、旧録を気に入ってもらっても、全く問題はありません。)
レコーディングしてくれた方は、そのままミックスをしてくれる予定でしたが、俺の状態に嫌気がさし降りてしまいました。
飯田裕はよくここまでがんばってくれたと思います。
3rd終了後に抜けてもおかしくないようなバンド状態だったのに、ここまで続けてくれました。
彼は自分のベースのパートを弾き終わると、去っていきました。
そして、新たにミックスしてくれる人を捜さなくては、という事になりましたが、心身共に限界で何も出来ず「このままでは、6枚どころか4枚目すら完成までたどり着かない」と気付き、認め、また2019年の2月から断酒を始めました。
「ただ飲まないだけでは、俺の断酒は始まらない。ちゃんと歌えないとダメなんだ」と、もう分かっていたので、以前の知識だけではなく、新しく色々試し、勉強して、違うやり方でやってみました。
ライブをやって、またうまくいかなかったら、怖いので、ライブは入れませんでした。(まあ、ほとんどオファーもありませんでしたが)
が、1年後の2020年2月21日にのっぺら(飯田裕が在籍している)が企画に呼んでくれて「今ならできるかな」と思えたので、歌いました。
今までで一番、歌を歌えている気がしました。
ここからやっと始まった気がしました。
見に来てくれたアディーも、本当によかった、と言ってくれました。
この日のライブで「歌を歌う」という感じを体験した以上「歌」を歌うのではなく「その時の感情を出す道具」として扱っていた3rd,4thの事が気になり出しました。
そして、4月に大好きだったブルースマンの友人が亡くなり、それをきっかけに色々思うところがあり、ずっと嫌っていたサブスクでの配信をやる事にしました。
6thまで無事完成したら、全60曲から、お客さんに10曲選んで貰い、ベストのレコードを作りたいな。というのが新しい夢になりました。
が、今作っている5th、6th、そして、1st、2ndと比べ、後悔の残る3rd、4thからは1曲も選んでもらえないのでは無いか?いい歌ばかりなのに、自分のせいで、歌がかわいそうだ。と思うようになりました。
なので、録音時のメンバーに了承を得て(はなえもんだけは3rd制作の途中で「後は好きにしてもらって構わない」と言って抜けたので、報告していませんが)「歌うだけ歌ってみよう。そして聞き比べて、残したい方を残そう。」と決めました。
で、再録の方を選びました。
旧録の方が好きな人もいると思います。
その時の記録が正解、という考えは、むしろ俺自身が昔から強く思っていたものでした。
が、やはり、アル中を病気(異常な状態)と認め、そして何より、自分で聞いていて、ただただ悲しく辛いアルバムを残すより、自分でも聞けるアルバムを残したい。と思いました。
旧録を聞くと、録音当時の事を思い出します。
再録を聞くと、その歌自体の作曲した頃の事を思い出します。
旧録の「深海」を聞くと、2017年のレコーディングの時の事が。
再録の「深海」を聞くと、2015年、真冬の三笠市立博物館の中から見た、雪に反射してとても明るかった夕暮れを思い出します。
本来、こういう説明は嫌いなんですが、今回は必要だと思い書きました。
酒の事も今まで中途半端に簡単に書いたりしていましたが、これが全てなので(まあ、グロいことは書いていないが)今後は書かないようにします。
そして、あの滅茶苦茶だった時期から続けてくれている、高野京介、ありがとう。
3rdレコ発ワンマン直前に、はなえもんは急遽抜けてしまい、アディーもいーちゃんも途方に暮れて3人は中野サンプラザの前に座っていた。
が、俺は割と途方に暮れておらず「高野君ならやってくれるんじゃない?」と2人に言った。
2人は「いやー、難しいんじゃない?」と言った。
俺は彼とはあまり面識は無かったが、昔彼が在籍していた「うみのて」と対バンした時に、彼はレテパに負けたと思ったらしく「すごくよかった。悔しい。」と言っていたし、その言い方が妙に印象に残っていたので、勝手にやってくれると思い込んでいた。
で、連絡してみたらやってくれた。で、そのまま居ついてくれた。
はなえがいきなり消えて、アディーもいーちゃんもさすがに絶望して意気消沈だったが、高野君とスタジオに入り、音を合わせた瞬間に2人の顔が活き活きと蘇るのを歌いながら見て「ああ、生粋のミュージシャンなんだな。彼らに俺はミュージシャン以外の部分で苦労をかけすぎたな。本来の姿でいさせてやれなくて悪かったな。」と思ったものでした。
関口萌は上記の3rdレコ発ワンマン後に、役目を終えてアディーが抜けたので、さてドラマーどうしようと考えて、友人の佐古勇気に相談してみたら「関口萌君がいいんじゃない?」と教えてくれて、会ってみた。
そして、俺が「6枚のアルバムを完成させるまでは、何がなんでも終われない。」と言った時に、萌ちゃんの心が動いた気がした。(俺が勝手に思い混んでるだけかも)
作品を残したい、という事がどれだけ大切な事か、分かっている人の様な気がした。
そしてそれは当たっていて、4th以降のレテパのアルバムの一番大事な部分をはじめちゃんが守ってくれている気がします。
ありがとう、はじめちゃん。
タカユキカトーは、4thのマスタリングをお願いした時に、久し振りの再会。(2014年の1年間レテパギター担当でした)
マスタリング時、俺の感覚を言わなくても分かってくれている様子を見て「過去に一緒に過ごし、感覚を分かってもらえている、というのは素晴らしい貴重な事なんだな。」と感動しました。
飯田裕が抜けて、ベーシストを捜していた時期で、断酒を始めたばかりの不安な頃でした。
その頃は、もうライブをする事は諦めていて(ライブが上手くいかず飲みだしたら終わりなので)あと2枚のアルバムを完成させる事だけを目的に生きていました。
「タカユキ君、ベーシストじゃないけどベース沢山持ってたし、多分弾けるんじゃないかな?そして、録音エンジニアも兼任してもらったら、ラスト2枚は傑作になるのでは?」ともくろみ、オファー、彼も「6枚のアルバムを完成させるまでは、何がなんでも終われない。」という俺の言葉に、動いてくれた気がします。
そして、沢山持ってたけど弾けるのかなー?の心配をよそに、タカユキ君は素敵なベース弾きでした。
ありがとう。ほんとあとちょっと、がんばろう。
そして2nd終了後に脱退。4th制作から帰って来てくれた、ハダユキコ。
4thに「ヘルメットヘアー」という歌があります。
彼女の名誉の為に書きますが、酒を止めてまともになったから彼女は帰ってきた訳ではなくて、この歌も諦めのベロンベロンで作った歌ですし、2018年4月1日に俺達は結婚しましたが、もし家に隠しカメラでも付けられていたら、壮絶過ぎて110番!される位の生活の中、それでも別れ切れずに(多分、負けず嫌いなんだな。極度の。)結婚してしまった、という感じですので、やはり公私共に一番大変だったのは彼女でしょう。ありがとう。
結局、俺が6枚、彼女が5枚、俺以外だと一番長くレテパシーズです。
彼女のピアノを上手いと言う人もいますが、彼女は上手いというより、下手だがパンク、なところが素敵だと思っています。
ライブになると、パンクスになります。見た事あるでしょう?あなたも。
というわけで、3rdも4thも再録してより素晴らしくなったぞ。
5th,6thすげーハードル高くなったぞ。
がんばろーね。もう少し。
ps.写真は「深海」の三笠市立博物館の駐車場にて。
これでやっとこの時の光を思い出せるようになりました。
ps.昨日は6th録音前の最後の練習でした。
みんな自信満々でした。俺も自信満々です。
こうご期待。